大西巨人といえば、人が関(かか)わるあらゆる分野で、「俗情との結託」を厳しく批判した人である。ところで、「俗情」とはなにか。いま手元にある「大辞林・第二版」によれば「(1)世間の事情や人情。『——に疎い』(2)名利・愛欲などに引かれる卑しい心。また、世俗的な心情。『——を離れる』」とある。
なるほど、「俗情との結託」は批判されねばならない。しかし、たとえば「文学」における「俗情との結託」とはどんなことを指すのか。
文学に涙や感動を求めること、それは「俗情との結託」である。文学にわかりやすさと新奇の情報を求めること、それも「俗情との結託」である。以下、思いつくことを箇条書(かじょうが)きにしてみる。
既成の概念を疑わぬもの、解答を(性急に)求めようとするもの、解答を(性急に)与えようとするもの、整理整頓されているもの、同じような言葉を連呼するもの、感傷的なもの、大声をあげるもの、現実から目をそむけるもの、事柄の表面のみを見て思索なきもの、他人の思考を借りるもの——これは、すべて「俗情との結託」であり、大西巨人によって峻拒(しゅんきょ)されるものである。だが、これほどまでに「俗情」を排除して、いったい残るものがあるのか。その疑問への、作者からのみごとな応答こそ、ここにあげる『縮図・インコ道理教』に他ならない。
これを小説と呼ぶべきなのか、評論と呼ぶべきなのか、それとも、それ以外の未知のジャンルに属するものと考えるべきなのか、それはぼくにもわからない。
作者は、常識(俗情)の外に「文学」を置いているからだ。
「インコ道理教(オウム真理教)」をめぐり、天皇制をめぐり、戦争と革命と国家とテロリズムと芸術のありかたをめぐり、つまり、現在を生きる者にとって避けることのできない難問をめぐり、著者は、凝縮された思考の断片を提出する。だが、ここには、どんな意味でも解答は存在せず、すべては、読者に委ねられる。
「俗情との結託」を排するとは、実は、読者への信頼と(自由であることの過酷さを耐え続けよという)依頼なのだ。