読みながら、本の中の世界に入り込んで出て来られなくなる。回りの音が消え、賑(にぎ)やかで明るい雑踏のなかでひとり、あちら側にいることの孤独を感じるが、頭上に広がる空を見て、かの地の空の青と壊れかけた砂色の壁を想像する。
詩人の紡ぐ旅の記録に、激しく嫉妬(しっと)するのは、そういうときだ。社会科学者が紛争の実態について、幾万もの言葉を尽くしても伝えきれないというのに。
作者が旅の過程で描くイスラエルと旧ユーゴスラビアに共通するのは、「隔てる」ということだ。分離壁で占領地のパレスチナ人を隔離するイスラエル。彼らはパレスチナの土地は欲しいけれども、住民はいらない。旧ユーゴでは、戦争がアイデンティティーを細分化し、相手を差別することで、自分たちの優位性にしがみつく。命を賭けた戦いは、自分たちと他者との境界を、宗教、民族や顔つきで明確にすることでしかなかった。
隔てられた者の痛みを見ないことによって、普通の日常生活を保とうとするのも、イスラエルと旧ユーゴで共通している。パレスチナ人に対してイスラエルの軍隊がどのような仕打ちをしているのか。自国の同胞が玩具的に弱者を虐(いじ)めている現実を目撃しながら、自分たちだけに約束された平穏な日常を営む緊張感と不条理に耐えられず、イスラエル人はこうしたことすべてを、見なかったことにする。見られない、という形で存在否定されたパレスチナ人は、その日常から彼らを追い出す壁にしがみついて、壁を叩(たた)きながら自分たちの存在を叫ぶ。
戦闘が繰り返されるなか、10年間以上も聖母マリアの出現を見続けたヘルツェゴビナのメジュゴリエの人々は、第2次大戦中に虐殺された大量の遺体の丘の傍らに住む。殺戮(さつりく)について考えるかわりに、自分たちの住む土地の神聖さにすがり、孤立と虐殺の記憶を忘れるのだ。セルビア人は皆、ユーゴ時代の共存を思い出して、ノスタルジアに浸っている。
苦言をひとつ。著者は本書内で、自分がテロという用語を使わない理由を説明している。だが、本書の帯には大きく、「テロルの連鎖」とある。痛ましい。