新聞の書評欄では、ほとんど(現代)詩を扱わない。なぜなら、詩は、特殊なものだと思われているからだ。
ほんとうは、詩こそ、すべての人たちのために書かれているはずではないのか。でも、現実には、違う。「詩」は「難しい」。そして「わからない」。だから、「みんな」は読まないのだ、という。
だが、重要なことが一つある。詩を好きな人、詩を愛する人も、実は「わからない」と思って、読んでいるのだ。
その「わからない」には、二つある。 一つは、その作者が、自分のことしか考えないから「わからない」ものだ。
その人は、自分の興味があることを、自分のために書いている。だから、その人のことがわからないので、書いているものもわからない。なのに、その人は、「わたしの書いたものがわからないなんて、センスない」などと呟(つぶや)くのである。
もう一つ。そちらの作者は、遠くにいる我々に一生懸命、なにかを伝えようとしているのだ。「たいへんだよ、堤防に穴が開いて、水が漏れているよ!」とか。でも、遠くて、声なんか届かない。だから、その人は、狂ったみたいに、手を振り、脚をバタバタさせる。すると、遠くで、それを見ている我々は、「何、あれ? ぜんぜんわかんない。頭、イカレてんじゃないの」などと思うのである。
藤井貞和さんは、後の人だ。彼の詩にも、たくさんの「わからない」がある。しかし、それは、藤井さんが「日本語と日本の現在」というたいせつな堤防が決壊しようとしている現場から離れず、全身全霊で「言葉がね、日本語がね、ダメになっちゃうと、我々もまた全滅だよ」というメッセージを送っているからだ。
藤井さんは、穴の開いた堤防に腕を突っ込んでオランダを守った少年のように、「たいせつなもの」を守るために、その場所を死守すると決めたのだ。
「ちからが足りなくて、なんにもできなく、三年、十年、/わたしたちはただうたってる、階段室で、吹きさらしの、/廊下で、つらい時代が、どんなにきみたちを捨てても、/忘れられなく、また立ちあがるからね、性懲りなく。」