ワープロ、ケータイの普及によって、日本人は筆で字を書くという営為から疎くなりつつある。このことは我々の精神性や社会性にどう影響するのだろうか。
卓越した書家である著者は書を性格づけるのに「筆蝕」の表現と言う造語をあてる。青銅器や石に「刻む」、竹簡(ちくかん)や紙に筆で「触る」、その間の相克、統一を通して書は生まれたからだ。だから書は黒と白の対比の表現ではなく、光と陰による表現なのだ。筆尖(ひっせん)を通じて書家は対象に力を加える。対象から反発する力が返る。それをねじ伏せたり、折り合いをつけたり、微妙に震えたり、すーっと逃げたり。そういうドラマを、西洋音楽の楽典に匹敵するような分析で解こうと試みる。それには書を眺めるだけでなく、まず指でなぞってみることがいいという。豊富に掲載された古今の名書にもとづいて、書の美が説かれる。
評者のような書の素人にとって本書がもう一つ面白かったのは、字および書と社会のありかたの間の関係についての歴史的洞察だ。秘儀的な甲骨文に始まり、諸王国による自前の正書体の覇権競争を経て、周辺後進地だった秦の始皇帝により文字は統一される。悪名高い焚書(ふんしょ)は政治統一=文字統一の事業でもあった。
だが書は同時に個人の精神的営為でもあるから、確立した規範からの揺らぎ、崩しが必ず生ずる。それがまた新たな規範となるのは、何らかの革新的な思想性、技術を含んでいるからだろう。楷書(かいしょ)が「軟書化」していく唐以降の狂草(きょうそう)や、空海が日本にもたらした雑書体について、そうした構造が解き明かされる。
文字の政治的統一によって、その宗教的性格は希薄になったとはいえ、まっすぐの垂線を書くことに、絶えず天を意識し続ける、書き手の自省の中にのみ宿る宗教的感覚がうまれる。だから東アジアは、書くという行為によって西洋の一神教的な宗教を超えたとされる。
デジタル化した文字がワイヤレス、光ファイバー、銅線、ディスクなど様々な物理的媒体を通じて瞬時に飛び交うとき、縦に筆で書くということの様々な意味を改めて考えさせる書物だ。