村上春樹は長編もいいが、それ以上に短編が素晴らしい。言葉とイメージが凝縮されていて、細部が巧みに連繋(れんけい)して、ひとつのテーマを屹立(きつりつ)させる。何よりもバランスがとれていて、見事な結構をもつ。それでいて、あえて十分に説明しない余白があり、読む者はそこに、言葉ではうまくいいあらわせない何か、懐かしくも切実な何か深いものを感じとる。
たとえば、ピアノ調律師が姉と和解する「偶然の旅人」。いくつもの偶然を重ねながらも少しも作為を感じさせず、生の不思議な営みを浮き彫りにする。“僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです”という真実を示しながら。
“かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです”(「偶然の旅人」)という言葉が示すように、ここでは(村上春樹の小説では)形のないもの、目には見えないものが重きをなす。女性ピアニストがハワイで亡くなった息子を悼む「ハナレイ・ベイ」では、自分に見えない息子の幽霊の意味を考え、彼女はすべてを受け入れる重要さを知る。また、作家が謎の女性と付き合ううちに小説のテーマが変化する「日々移動する腎臓のかたちをした石」では、日々移動する無意識の欲望の方向と生成に目が向けられる。
奇譚(きたん)とは、不思議で怪しい、ありそうにもない話のことである。あえて奇譚とつけるほど村上春樹にとって特別なジャンルではなく、むしろいつもの小説集といっていい。短編集『神の子どもたちはみな踊る』との関連(人物数人が重なり合う)、先行する作家たちの影響(「日々移動する——」はカーヴァー、失踪(しっそう)した男を探る「どこであれそれが見つかりそうな場所で」はオースター、女性が自分の名前だけを忘れる「品川猿」はポー)なども興味深いが、でも大事なのは、読者自身が何を感じ、何を見るかだろう。なぜなら、奇譚が人を夢中にさせるのは、その定かでない事実の形、人によっていかようにも読みとれる形だからである。