大江健三郎は、現存する、最大の顰蹙(ひんしゅく)作家である、とぼくは考える。
例えば、戦後民主主義へのナイーヴな信頼や、政治的アクションへの止(や)むことのない参加は、高度資本主義下の日本人の多数にとって、顰蹙ものである。
さらに顰蹙をかうのは、その作品だ。
外国の作家や詩人の引用ばかりじゃないか、自分と自分の家族や友人と自分の過去の作品について書かれても興味持てないんですけど——等々。
だが、真に顰蹙をかうべきなのは、もっと別のことだ、とぼくは考える。
この小説だけではなく、近作全(すべ)てで主人公を務める長江古義人は、ノーベル賞作家で、本ばかり読む人である。要するに、作者の大江健三郎にそっくりの人物だ。その、作者そっくりの人物のもとを訪ねた、幼なじみの、国際的名声を持つ建築家、椿繁は、「老人の最後の一勝負」として9・11同時多発テロに触発された東京の超高層ビル爆破計画を持ちかけ、そのあらましを、新しい小説として書くように要請するのだが——というのが、この小説の「あらすじ」だ。
しかし、そんな「あらすじ」に従って「読まれる」ことを、この小説は拒否している。
作中人物の一人は、主人公にその計画を「本気で受けとっていられたか」と訊(たず)ねる。「本気」があるのか。あるとしたら、それは何なのか、と。それは、作者自身が、読者になりかわって訊ねたことなのだ。この小説の「本気」は何か、と。
この小説は、読者の前で揺れ動く。過激な煽動(せんどう)と真摯(しんし)な問いかけと悲痛な叫びに滑稽(こっけい)さ、そのどれが「本気」なのか、と読者を悩ませる。だが、小説とは、そういうものではないのか? 苦しみつつ、作品の解読を通して、作者さえ知らないものを見つけ出すのが、小説を読む、ということではないのか。だとするなら、小説への信だけは失わぬ大江健三郎は、世界がどのように変わっても、他の作家たちが小説を書かなくなったとしても、ただ一人、小説を書き続けるに違いない(なんと迷惑な!)。それ故に、ぼくは、彼を最大の顰蹙作家と呼ぶのである。