日露戦争ではロシア側の8万人弱の捕虜が日本各地に収容され、日本側も2千人強の捕虜を出し、その大半がロシア北部のメドベージ村に移送された。彼らの生活を扱った文献は少なくないが、本書は捕虜の取り扱いを世界史的観点から概観した『捕虜の文明史』の著者が、新たな史料を加えて日露戦争時の捕虜処遇を客観的で広い視野から分析した好著である。
日露戦争時に日本が捕虜を厚遇したことはよく知られているし、ロシア側も概(おおむ)ね国際法に従って捕虜を遇した。本書の記述も、基本的にはこの事実を確認するが、より大きな歴史的視座や隠された事実を発掘することで、このエピソードを単なる美談ではなく立体的に捉(とら)えている。
歴史的に見れば、戦時捕虜の処遇が国際法上明確に規定されるようになったのはようやく19世紀後半になってからであり、実は帝政ロシアこそ、文明国としての人道性をアピールするために捕虜取扱規則の制定を主導した国であった。日露戦争時の捕虜処遇の基準となったのは「ハーグ陸戦規約」だが、これはニコライ二世の呼びかけで開かれた国際会議での、ロシア出身の国際法学者マルテンスの活躍の結果であった。日本もまた文明国としての地位を証明するため、国際法学者を戦場に派遣するなど、国策として国際法の遵守(じゅんしゅ)の徹底を図った。
しかし日本国内には当時から、捕虜となることを恥辱と見なして帰国後の元捕虜を冷遇し、同時に敵捕虜を厚遇することを批判する風潮も一部にあった。更にサハリンでの捕虜虐殺の事実と公式戦史での隠蔽(いんぺい)があったことも本書は明らかにしている。他方、ロシア側の日本人捕虜処遇でも一部に略奪、虐待と呼ぶべき事態が存在した。
それでも後の日本軍の「戦陣訓」に代表される捕虜否定がもたらした残虐さや、ソ連のシベリア抑留に比べれば雲泥の差であった。現代の紛争につきまとう野蛮さを見ても、当時の捕虜処遇が貴族的文化の残る時代に人道主義と国益が結びついた特殊な状況の産物と思えてくる。