同胞を大量に殺害され、自らも死の恐怖に晒(さら)されながら、そうした状況を生み出した社会に住み続けるのは、筆舌に尽くしがたいことに違いない。「ドイツはユダヤ人不在の地となり、その不在こそが……未来永劫(えいごう)ドイツの罪の証しとなるはずであった」。だから筆者も、第2次大戦後、ユダヤ人が「どこで自分の親兄弟を殺したかもしれない人間と出くわすかわからない」地にいるとは思いもしなかった。その意外性が、本書を生んだ。
彼らの多くは、ナチスの迫害を避けて「ユダヤ人」性から逃れてきた。しかし皮肉にも戦後、彼らはその「ユダヤ人」性にすがることになる。「被害者」として戦後の救済を求めるには、「民族の枠組みに立ち戻ることが求められた」のであり、ナチズムの差別を否定して「法の前の市民の平等」を徹底することは、補償も得られないことを意味した。
その一方で、「『ユダヤ民族』という仮想の共同体」を設定するシオニズムにとっては、「殺人者の国ドイツ」にユダヤ人が居残るということ自体が、ユダヤ人国家(イスラエル)建設の必要性に対する反証となる。自分たちは何故「ユダヤ人国家」に移らずに、ドイツに住み続けるのか。「ユダヤ人」とは何か。それは激しい帰属意識の葛藤(かっとう)を生む。
「詰めたスーツケースに座って」いつでも移住できるつもりでいたドイツのユダヤ人。だが60年代後半には、「ドイツでの生活を前向きに受け止めるべきだ」との主張が出てくる。90年代のユダヤ人社会を率いたブービスは、自らを「ユダヤ教徒のドイツ市民」と位置づけた。
半面、「被占領民となり傷ついた自尊心に苦し」むドイツ人にとっては、連合軍の庇護(ひご)を受けるユダヤ人を、自分たち敗戦国の「運命共同体」の一員とみなすのは難しい。犠牲者に与えられる特権へのねたみに始まり、「ホロコーストについて聞かされるのにはもううんざり」「ドイツはもう十分に謝罪し、罪を償った」との声が上がるなか、被害者たるユダヤ人を加害者視する風潮が生まれる。
これは他人事ではない。「国民」形成の本質への問いは、我々の問題でもある。