本を読んでも読んだことを忘れ、読みながら考え書いたメモの類も、あとになって読み返すとどれもが未知のもののようだ。そんな女の困惑が、苦い面白みを広げる表題作のほか、五十の短編が収められている。長くて数ページ。短いものはたった二行。とても面白いと興奮するものもあれば、それほどでもないと思うものもある。だが、後者の作品も、別の日に読み返せば面白いと思えるかもしれないと思う。なぜならば、別の日のわたしは今のわたしと同じ人間ではないから。
当たり前のことだけど、普段、こんなことを考えて読書はしない。面白くないのは作品のせいである、とひとまずは思ったりする。しかしそう言ってしまうことに深く躊躇(ちゅうちょ)するものが、この作家の創(つく)ったものにはある。作品に対峙(たいじ)する自分の方がぐらぐら揺れてくるのである。
一方、ああ面白かった、というものに関していえば、面白い理由が即座にはわからない。なんだかよくわからないけど妙に面白く、しかもなぜ、この「わたし」は、これが面白いと思ったのだろうと、読み終えたあとも、引き続き考えてしまうことになる。どうやら、すべての作品に、自分というものを「見知らぬ他者」として意識させ、疑わせるところがあるようだ。
「出ていけ」という作品は、「出ていけ、もう二度と戻ってくるな」と怒った男と、その言葉に傷ついた女の話。読者を女の立場に置いて、「あなた」がなぜ、この言葉に傷ついたのかを、考え語っていく。実によくある状況ですね。でも、著者の関心はなぜ男がこんなことを言ったのかという「原因」や、彼らの心理的葛藤(かっとう)には向かわない。男の言い放ったこの一言がこの状況下において、どんな意味と構造を持っているのか、小説家というよりも科学哲学者のような情熱で考えていく。
そのうちに、傷ついたわ、なんて感情はどこへやら。読者の胸には最後、ひからびた蜜柑(みかん)の皮みたいな「抽象的真実」が残されるのだが、この瞬間の爽快(そうかい)なこと! 開放感を味わうと同時に、あのもつれた人間関係とやらを可笑(おか)しく哀(かな)しく距離を持って眺めることになる。