「ウォーターゲート事件」は、70年代米ジャーナリズムの輝かしい成果として歴史に刻まれている。当初の民主党施設への盗聴目的の侵入事件と、ホワイトハウスによるもみ消し工作の真相を追及し、ニクソン大統領を辞任に追い込んだW・ポスト紙の二人の若い記者の仕事は、ベストセラー本『大統領の陰謀』と同名の映画になって、人々の賞賛を集めた。
その一人、入社間もないウッドワード記者の情報源となり、的確な助言を与え続けた政府高官が「ディープ・スロート」だ。有名ポルノ映画の題名からの借用だが、その後30年以上にわたり正体は明かされなかった。今年になり、当時FBI(連邦捜査局)の副長官だったマーク・フェルト氏が家族の説得で名乗りを上げ、同記者側が、氏との関係や接触状況を明らかにしたのが本書である。
著者の海軍大尉時代からの知り合いだったこと。スパイもどきの指示や真っ向からの取材の働きかけ。ポスト側からもホワイトハウスに情報が流れ、大統領周辺も情報源がフェルト氏だと感づいていたなどの事実が明かされ、『陰謀』の空白部分を埋める読み物となっている。
いささか悲痛なのは、90歳を超えたフェルト氏は認知症で、すでに多くの記憶を失っていることだ。数年前から連絡を再開した著者との間でも、十分な対話は成立せず、「ディープ・スロート」となった動機や、組織的関与の有無などは、結局答えが得られなかった。
FBIとホワイトハウスの間の対立や、氏が長官に昇格できなかったことなど、動機をうかがわせる事情もあったが、ともあれ、野心に溢(あふ)れた駆け出し記者と、政権の捜査への対応に不満を抱いたフェルト氏の絶妙なコンビは、事件を見事に「歴史」に仕上げた。
かくて、記者は本人が明かすまで情報源を守り通し、米国屈指の言論人ともなって、ジャーナリズムの「教科書」は完結した。イラク戦争開戦の疑惑をめぐって、一人のディープ・スロートも、真実追求の意欲に燃えた駆け出し記者も現れなかった今の米国を考える上でも、刺激に満ちた実録である。