「リスク論」という学問があり、リスクを客観的な確率として計量可能なものとみなし、リスクをはらむ行為から得られるベネフィットと検査や被害のコストを比較して、行為の適否を決めるべきだと唱えている。リスク論は「近代」の所産である。近代とは、市場で個々人が合理的に目的を追求し、発生した失業や公害のリスクは国家が福祉・社会政策によって制御しうるとされる歴史段階だからだ。
けれども技術が日進月歩する現在、原因と結果の関係は複雑化し、計算は素人には不可能事となった。代理として専門家が登場したが、高度な分業生産体制のもとでは責任は曖昧(あいまい)だ。マンション耐震強度の偽装や牛海綿状脳症(BSE)にかんする全頭検査が話題になった今年ほど、この問題が切迫して感じられた年はあるまい。
ベックは86年の『危険社会』で、市場経済の生み出すリスクが制御可能であったのは「第一の近代」にすぎず、因果関係の複雑さや分業体制の深化からエコロジカルな危機が出現した現在、世界は「第二の近代」に移ったと喝破した。本書ではさらに、国民国家までもが市場と個人のはざまで融解する過程を、諸説を引きながら検討している。
新自由主義にもとづく「グローバリズム」は国家を健在ととらえ、その上で規制緩和と自由貿易の振興が世界に豊かさを均霑(きんてん)させ、リスクも制御できるという「近代」の見方をとる。
ベックはこれを批判して、「グローバル化」を第二の近代特有の現象と見る。知識が資本とともに不可欠な生産要素となった現在、労働は世界中で置き換え可能になった。そこで超国籍(トランスナショナル)企業は高い法人税と人件費を逃れて地球上を移動し、経営者はもっとも快適な土地で暮らしている。「敗者」である労働者は定住するしかないが、土地柄の魅力は彼らが築き上げたものだ。安全な食住には費用がかかり、リスクは貧者に押しつけられるのと同様の不公正さが、グローバル化した世界を貫いている。
もっとも、ベックは経済だけがグローバル化したとは見ない。「モロッコ娘がアムステルダムでタイ式ボクシングをする」(ルシア・ライカのことか?)ようなグローバルかつローカルな文化の混交や、世界規模のテレビ・キャンペーンと不買運動で環境破壊した石油会社を屈服させる市民運動の拡(ひろ)がりもあり、グローバル化は多様に進行している。なにより、欧州連合(EU)や世界貿易機関(WTO)、国際裁判所などが超国家的に再編されている。グローバル化は後戻り不能な過程と見るベックは、不公正を糺(ただ)す機関として、そこに希望を託す。
97年に書かれた本書は、国際テロ組織という「脱国家」主体の行動は視野に入れているものの、「ヨーロッパ」という超国家連邦への期待が勝っているせいか、「勝ち組」米英の帝国主義的な反攻までは想定外であるようだ。それでも、日米の国家関係と大企業を重視する小泉政権の「グローバリズム」を見直す視点は、十分に用意されている。