作家と読者の関係は、恋愛関係に似ている。好き、好き、大好き、超愛してる。そういう作者を、読者は欲しがる。
だが、愛は時に暴走する。愛は偏狭になる。そしてこんなことを言う。「なぜ、あの頃みたいに愛してくれないの?(あの頃のような小説を書かないの?)あなた、すっかり変わってしまったのね(小説が)」
『マークスの山』や『レディ・ジョーカー』の作者高村薫のファン(ぼくもその一人だ)は、前作『晴子情歌』を読んだ時、そう思ったかもしれない。それでも、『晴子情歌』には、主人公晴子の煌(きらめ)くような繊細な感情が刻み込まれていた。だが、続く、大河小説第二弾の、この『新リア王』からは、その柔らかな「なにか」さえ抜け落ちているように見える。
『新リア王』は、青森に巨大な政治王国を築いた「現代のリア」老代議士福澤榮と、前作の主人公晴子との間にできた婚外子、僧侶となった彰之との間に交わされる長大な会話で成り立っている。榮が語る戦後政治の膨大で生臭いエピソードの数々。そして、宗教者彰之の語る、観念の世界。だがそれらは、一方通行となっていて会話の形すらなしていないのではないか。いったい、作者はこの小説でなにを読ませたいのか。微(かす)かに疑問を感じながら、終結部にたどり着いた時、突然感動がやって来る。
高村薫は、すべてを承知の上で、この小説を書いたのだ。なにもかもわかった上で、誰もが理解できる(ふつうの)小説の豊かさへの道を断念したのである。
ミステリー作家として、作者は、近代日本に巨大な犯罪の痕(あと)を見出した。その犯人捜しの旅を、作者は『晴子情歌』以来、開始したのだ。作者は、いま深く、近代に入り込み、その暗い底に降りてゆきつつある。その孤独な探索の旅に付き添う者の姿は見えない。魅力的な登場人物も、奔流のような物語も、この旅には必要ないからだ。だが、旅の果てに見つかるものが、我々のまだ知らない「豊かさ」ではないと誰が断言できるだろう。
「狂えるリア」とは、荒野に乗り出した作者自身のことなのだ。