『比較の亡霊』とは魅惑的なタイトルだ。作者は外国の出来事を観察していて、母国をあたかも望遠鏡の反対側から覗(のぞ)き見るような「めまい」の感覚にとらわれた。この経験は後で見るように比較分析による知の可能性を暗示するのだが、表題は似た経験をしたフィリピンの作家リサールの表現から借りている。
本書は、前著『想像の共同体』以降の国民国家論の展開を初めと終わりにおき、「ヒロヒトの軍隊がその全地域を事実上支配したことへの応答としてうまれた東南アジア」の個別・比較研究をサンドイッチのように挟む、いわば著者の研究の集大成だ。過激な政治的文書と見まがうような章もあるが、バルガス・リョサの『密林の語り部』、ジャワ文化の『百科全書』、リサールの『ノリ』などの文学書を材料に、ナショナリズムの萌芽(ほうが)、潜在的構造、逆説、矛盾、希望と困難などをえぐり出す手法は、あざやかだ。今やナショナリズム論の新古典ともいわれる前著の巨視的な歴史観は、微視的な各国研究の望遠レンズの逆視を通して生まれたことが窺(うかが)える。
市場のグローバル化、移民の大量移動、通信技術の発展は、ナショナリズムによる「同胞愛、権力、時間」のつながりを、かつて恣意(しい)的に作られた国境の枠を超えて拡延していく。ここに作者は「根本的には無責任な政治活動」を生み出す「遠距離ナショナリズム」の危険性を見る。にもかかわらず、著者は「想像の共同体」としての国民国家は依然可能で、必要だと考える。まだ生まれぬ無垢(むく)の将来世代への責任、過去の「無名」の殉国者の純粋性、「母国」にむけて連帯する現在世代の兄弟愛に、その「善性」の源泉を見るからである。
だが、国民国家が否応(いやおう)なしに外に向けて開かれていくとき、そこに生ずる困難を擬制ナショナリズムで覆い隠し、争う動きはないか。特定の国家に依存しないグローバルな結びつきが産み落とすテロルの脅威は、世俗国民国家(の連合)を超えた「想像の共同体」の模索を必要としてはいないか。ポスト・アンダーソンの課題ともいえよう。