エジプトの有名な映画監督ユーセフ・シャヒーンの作品に、「他者」という映画があるが、その冒頭に、米コロンビア大学で教鞭(きょうべん)をとるパレスチナ人学者、エドワード・サイードがチョイ役で登場する。大学のキャンパスで彼は、卒業するアラブ系の学生にこんこんと、母語アラビア語で他者との共生の重要性を諭す。78年に出版された主著『オリエンタリズム』以来、西欧で構築された知の世界が「中東」を他者視し差別化することで成立したことを、批判的に指摘してきた彼ならではの「贈る言葉」だ。
本書は、03年に死去したサイードの最後の四年間の評論をまとめたものである。生を受けたパレスチナでのイスラエルの攻撃が残酷さを増し、自らその国民であるアメリカが狭量な単独行動主義に傾斜し、9・11を見、救いのないイラク戦争の開戦を見る。その最も痛ましい日々のなかで、死を前に紡ぐ彼の言葉は、かつてないほどの切迫感と危機感に溢(あふ)れている。
そこでは、これまで彼が批判してきた問題群——イスラエルの途轍(とてつ)もない暴力、アメリカのアラブ、イスラームへの偏見、武力による解決への妄信など——が、繰り返し糾弾される。だが本書の特徴は、驚くほど厳しいアラブ諸国政府への批判が展開されていることだ。なによりも本書に所収されている評論が、英語圏の読者に向けられたものではなく、アラビア語の主要紙「ハヤート」紙とエジプトの「アハラーム」紙に寄稿されていることが目を引く。
そこに通底するのは、市民としての経験をもたないアラブの統治者たちが、自らの権力にしがみつくためだけに飛びついた「和平」がいかに無意味であるか、権力者たちがいかにアラブの国民の存在を無視し、彼らを守ることに無力であるか、という批判だ。彼は繰り返し「なぜパレスチナの抵抗運動が南アフリカのように世界から普遍的な支持を得られないのか」を訴える。アメリカのお情けにすがるしか「和平」を追求できない、という考え(これはアメリカの戦争を利用してしか独裁政権を打倒できない、としたイラクの亡命政治家たちにも当てはまる)を捨て、自力で「世界の想像力をとらえる」努力こそをすべきではないか。
何故(なぜ)アラブ知識人たちは自作がヘブライ語に翻訳されることを拒否するのか、何故アメリカについて十分な知識を獲得しようとしないのか。「侮蔑的な態度という幼稚な行為を真の抵抗と取り違え」るな、という彼の主張の根幹にあるのは、「共通の人間性」への信奉である。一つの土地に二つの民は、共存できるはずだ、と。
だが一方で、彼は最期まで「パレスチナに対して満足なことをしていない」との悔いに苛(さいな)まれてきた。いくらアラブの高級紙の紙面上で訴えても、性急かつ短絡的な反米主義に走るアラブの若者たちは増え続けるという、現実。
冒頭で触れた映画では、サイード先生の教え子2人がともに、アラブに帰国した後テロに倒れる、という結末が待ち受けている。サイードの悔いと共通する苦悩が、ここにある。