文献学というのは一見地味だが、実は刺戟(しげき)的な学問分野だ。とくに「仏教とはどのような教えか」を考えるとき、文献学的教養は不可欠といってよい。
何故(なぜ)なら、あらゆる経典が、開祖ゴータマ・ブッダの著作ではないことが明らかになっているため、ブッダ自身が一体何を説いたのかは、文献学による遡及(そきゅう)を介して推知する他ないからだ。
本書には、文献学という世界の面白さ、楽しさが詰まっている。それはまるで考古学や探偵小説を思わせる。
著者は、まず先学に倣って初期仏典の韻文経典を最古層と古層とに分類し、それらに徹底的な批判を加え、最古層から古層への記述の変化の流れを検出する。
そして、その流れの方向性を逆に辿(たど)ることで、最古層以前の「歴史的ブッダ」の説いた思想が推定できるというのだ。
これはとても妥当な方法だ。昨今の啓蒙(けいもう)書のなかには、仏典成立時期の目安となる韻文、散文の区別を無視し、語形の変化もお構いなしに、悉(ことごと)くブッダの真説とみなす、まったく乱暴な説述が見受けられる。対照的に、本書の視座は客観的であり、実証性に富む。然(しか)るに、その手堅い推論の帰結は新鮮ですらある。
例えば「ブッダ」という呼称、「渡す」という語の用例の変化から、救済者の性質が開祖に付加されていったことがわかる。また「涅槃(ねはん)」の語源やブッダの息子、ラーフラの命名をめぐる推理と考察などは本当に探偵小説顔負けだ。
では、ブッダは輪廻(りんね)をどう捉(とら)えていたか。古層の経典では、確かに輪廻は業報(ごうほう)と結びつけられ、積極的に説かれる。だが著者は文献を精査し、最古層の経典には輪廻(サムサーラ)という語は見出(みいだ)せず、「来世」や「再生」などの表現はみえるものの、いずれも否定的な文脈に限られている事実を突き止める。ブッダ自身の輪廻観は飽(あ)くまで否定的であったと推すことができるのだ。「無我なのにどうして輪廻という生死を超えた我の存続を認めるのか」との疑問が氷解するとともに、当時から流布していた輪廻という観念の因襲を、無我の思想を立てて解体しようとしたブッダの姿を、本書は見せてくれる。