役職に就いている間は公にできないことでも、辞めると自由にものがいえる。日本の組織ではよくあることだ。それだけに、立場を離れた直後の言葉には、その組織に染み渡った、通常表からは見えにくい特徴が織り込まれている。そういう視点から、元文部科学省課長の書いた本書を読むと、そこから日本の教育論議の特質が二重、三重に浮かび上がる。
大仰なタイトルが付いているが、国際経験豊富な著者の指摘の多くは的確だ。海外からの視点を熟知した、教育行政の中枢にいた立場から見る、日本の教育論議の不思議さ、おかしさ。各章の表題にあるように、本書では、現状の認識、原因の究明、目標の設定、手段の開発、集団意思形成の五つについて、教育論議の「失敗」が明らかにされる。
著者の批判の矛先は、「区別のできない」日本的論議の落とし穴に向けられる。たとえば、目的と手段の区別ができないために、適切なシステムの整備より「意識改革」といった精神論が重視される。ルールとモラルの区別ができないために、何でも「心の教育」で問題解決できると思えてしまう。さらには、カリキュラムや学力を論じる際に、社会の全員に関係する税金を使って行われる教育政策と、特定の学校に関係する教育実践との区別もできない、国家のニーズと子どもたちのニーズの区別もできない、と鋭く指摘する。
要するに、マネジメントという発想の欠如が、日本の教育論議を混乱させているというのが著者の見立てである。事実のとらえ方や割り切り方に少々違和感を覚えるところはあるものの、大筋の議論はまっとうである。
それにしても、こういう分析能力のすぐれた官僚が早々と辞めてしまうのはどうしてか。著者の批判は、文科省内の論議にも向けられる。その指摘がもっともらしく見えるだけに、区別のできない論議がいまだ省内でも続いているのかと思えてしまう。もしかすると文科省の存在自体が、日本的論議を許してきたのかもしれない。いろいろな意味で読み応えのある本である。