『ジェイン・オースティンの読書会』というタイトルなので、どういう小説かと思って読みはじめると、みんなでジェイン・オースティンの小説を次々に読んでいく(読書会の)話。タイトルそのままではありませんか! でも、心配が一つ。ぼく、オースティンの小説、一つしか読んだことがないのですが(というのも見栄〈みえ〉で、実際は、中学生の頃、世界文学全集に入っていた『高慢と偏見』を半分読んだだけ)、この小説についていけるのかしらん。
大丈夫。著者のファウラーさんは、「(1)オースティンを読んだことがない人、(2)昔一度読んだだけの人、(3)毎年読み返す人」のすべてを満足させるように書いたのだそうだ。なるほど。では、安心して読んでいくことにしよう。
登場するのは6人。女性が5人、男性が1人。長く独身生活を続けてきた女、その女の親友で、夫の不倫に悩む妻、その妻のレズビアンの娘、等々。それぞれに、単純に語り尽くせぬ過去と現在を持つ6人の男女が集まり、オースティンの小説について、その中で起こる、愛と結婚と生活と打算について語り続ける。そして、同時に、作者は、オースティンの小説について語る6人の登場人物たちの、ほんとうの姿についても語り始める。
いつの間にか、我々読者もまた、その読書会の参加者になったかのように、その集まりを楽しみにし、そして、聞き惚(ほ)れている。なにに? 彼らが語る、オースティンの小説の感想に? いや、そうではない。ふだんなら、素直に耳を傾けたりしないような、どこにでもある、もしかしたらひどく陳腐でさえある、彼ら6人の「人生」というものにだ。
オースティンの小説は、「人生」について書かれている。小説は進化したかもしれないが、「人生」は進化などしなかった。我々は、いまも、オースティンの小説の登場人物たちと同じような「人生」を生きている。そのことに6人が気づいた時、彼らの読書会は終わる。彼らは、オースティンを読んだのではない、オースティンを「生きた」のだ。いや、「読む」とは、本来そうではなかったか。