中原昌也は嫌われる。
あるいは、「まったく妙なことを言うやつだ」と訝(いぶか)しげに思われる。
なぜなら、「ぼくの書いた小説なんか読まないでください。世の中には、もっと楽しい小説があります」というような、小説家としてあるまじき発言をするからだ。
十六の短篇(たんぺん)を発表順に集めた、最後の一つを除くと、ただでさえ短い小説が、後半になるほど(たぶん書くのが苦しくなってきたせいで)さらに短くなっていく、この本を読んでいると、ほんとうになにもかもイヤになってくる。
この、ほとんど筋らしい筋のない小説集の中に、もしなにか意味を見つけようとしたら、それは一つしかない。
「イヤだ!」ということだ。作者が「イヤだ!」と渾身(こんしん)の力をこめて叫んでいることだけは、わかるのである。
なにが「イヤ」なのか。いちばんイヤなのは、小説を書くことだ。それは、「これは価値があるものですよ、とか何とか言って、本当は何の意味もない物を売りつけている」からだ。「自分の書いていることが大変切実なことであるかのように振る舞わなければならない」からだ。つまり、中原昌也は「小説を書くのがイヤ」なのではなく「ウソばかりの小説を書くのがイヤ」なのだ。そして、中原昌也が嘆く通り、小説の周りは、ウソだらけなのである。
たとえば、作家の多くは、読者のことなんか、ぜんぜん考えない。
たとえば、作家の多くは、もう新しいものなど何一つ産み出せなくなっているのに、知らぬふりをして、平気で書き続けている。
たとえば……いや、そんなリストアップを続けても、キリはない。その事実を知っていても、誰もなにも言わない。正直に書いて波風を立てたくない。「ほんとう」のことは厄介なのだ。恥ずかしいけれど、ぼくだって、そんな仲間の一人なのだ。
小説が、もしそのようなものであるなら、なぜ中原昌也が苦しむ必要があるのか。さっさとおさらばすればいいだけの話ではないか。
中原昌也が苦しんでいるのは、彼が世界一のアホだからだ。現実の小説が、どれほど悲惨な状態にあったとしても、もしかしたら小説にはまだ「ほんとう」が可能かもしれない、などと思っているからだ。
だが、彼の苦しみは、単なる一小説家の苦しみにすぎないのだろうか。文学(小説)が世界のミニチュアであるなら、我々はすべて、彼と同じように、「ウソ」で固めた世界に苦しんではいないだろうか。
人から「ほんとうのことがどこかにある」という思いが消えない限り、中原昌也のような作家が現れ、ほんとうのことを書いては、嫌われる。だが、そのような作家がまだ存在すること以外に、小説(文学)に希望はないのである。
四年間、お世話になりました。書評委員としての仕事は今回で最後です。さよなら。