シカゴの街を舞台にした、11篇(ぺん)からなる連作小説集だ。時代は、50年代から60年代にかけて。「僕」ペリーを中心に、その家族や級友、朝鮮戦争から生還した叔父さん、第2次大戦で右腕をなくした飲み屋の店主など、忘れ難い面々が登場する。皆、裕福とは言えない暮らしの中で、体をはって生きる人々だ。
繊細にして重厚な語りは、「タフな台車」を思わせる。地面を行く、ごろごろという音が、文の底から響いてくるようだ。細部がみっしり書き込まれているので、最初は、読みにくいと感じる読者もいるだろう。しかしそうした緊密さが、あるとき、ある1行で、突然はじけ、作品の地平がいきなり開かれることもある。ダイベックは、詩も書く。思わず傍線を引いてしまうような、1行の力技を知るひとである。そういう箇所(かしょ)にぶつかると、まるで戸口に「どさっ」と荷物が降ろされたみたいに、渋い感動の重みが広がる。そのようにして、私は「胸」におののき、「ブルー・ボーイ」に泣いた。
「胸」は、ならず者のジョーが、1人の男を殺すまでの話。殺された男の魅力的な妻とジョーとの関係が緊迫感をもって暗示的に描かれる。非情な殺人描写と抒情(じょじょう)的な甘美さが、不思議に同居する作品だ。
「ブルー・ボーイ」のほうは、病気で死んだ少年をめぐる話。弟思いの残された兄の哀(かな)しみ、追悼創作を書く優等生少女の挫折。こうしてダイベックは、汚れ者から穢(けが)れ無き者たちまでを、同じ瑞々(みずみず)しさで同じ線上に並べて描く。
読者はまず冒頭から、シカゴのとある飲み屋にいきなり放り込まれ、やや不親切なやりかたで、次々と人々に引き合わされるわけだが、店のカウンターには固ゆで卵の入ったボウルがあり、皆、そこから卵を勝手にもっていく。儲(もう)かりそうもない飲み屋なのにいいのかしら? 読んでいると、そんなことまでが妙に気になる。気になって手を伸ばせば、本当に卵をこの手で掴(つか)めそうな気がして、いつのまにか私も常連客だ。
人間の生きる確かな空間が、この本の中には、丸ごとある。懐の深い小説である。
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柴田元幸訳/Stuart Dybek 42年生まれ。米の作家。著書に『シカゴ育ち』など。