十一の短編小説の語り手は、みな若い男である。彼らはみな、ワンルームのアパートのようだ。まだ若く、結婚や就職や終(つい)の棲家(すみか)や、そういう人生の決定事項の手前にいる、「仮」の状態。しかしこの短編集は、彼らの姿ではなく、彼らが出会った女たちの姿を描いている。深い関係を持つこともない、複雑な恋愛に発展することもない、「仮」にとどまっている男たちが、ある時期すれ違うように関(かか)わりを持った女たち。
合計十一人の女が登場するのだが、おもしろいことに、一般的に魅力的な女性がひとりもいない。著者が男性であることを思うと、たいへん複雑な気持ちにさせられる。それこそすれ違うような女性たちを、一種神聖化して書かれた小説にはうんざりするが、しかし、神聖化のかけらもなくここまで非魅力的に書かれると、女性としては何やらどきりとするものがある。
「平日公休の女」という短編に、化粧品の販売員である女が出てくる。友だちの家で「ぼく」は彼女と出会い、交際をするようになる。気前のいい女で、食事も旅費も出してくれる。なのに「ぼく」はかつてつきあっていた恋人を忘れられない。結局その恋人からよりを戻そうと持ちかけられ、「ぼく」は彼女をふってしまう。
この女性が小説内で名を持っておらず、「彼女」とだけ記されていることに気づくとき、何か腑(ふ)に落ちるものがある。本書に登場する十一人の女は、「選ばれない女」なのである。もちろん男が選ぶ側であって女が選ばれる側であるという能動受動を言っているのではない。彼女たちもまた、選ばれることを望んでもおらず、自分が望んでいるものが何かもまだわかっておらず、だから取り繕ったり自身を飾ったりすることがいっさいない。服もアクセサリーも身につけていないような無防備な姿を、そうと気づかぬままかいま見せる。どきりとさせられるのは、だからだ。語り手の男たちが「仮」の状態にいるように、女たちもまた、「仮」にとどまっている。
ひとつだけ、他とは異なる一編がある。ほかの短編はみな、一瞬のすれ違いののち、男も女も仮の場を出てそれぞれの場所へ向かっていったと思わせるのだが、「十一人目の女」だけは、男も女も「仮」に閉じこめられる。狭いアパートで同棲(どうせい)する男が、別れ話を持ちかけた女を殺(あや)めてしまう。なぜそうなってしまったのかを問う者に対して男は「分かりません」とくりかえしている。彼が弱々しくくりかえす「分かりません」は、関係というものの持つ不可解さへと私たちをひっぱりこんでいく。好きだ、愛している、という感情のみが、男と女の寄り添う理由ではないのだと気づかされる。愛憎の強さが関係の濃度を決めるのではない、とも。
未熟と成熟の中間、あるいは無関係と関係の中間を見事に描き出した短編集である。読み終えたとき、十一人の後ろ姿を見送ったような錯覚にとらわれる。はかなげでもあり、たくましくもあるその後ろ姿は、魅力的ではないながらしかし目に焼きついたように残る。
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よしだ・しゅういち 68年生まれ。作家。『パレード』で山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で芥川賞。近著に『ひなた』。