19世紀を代表するアメリカ女性詩人エミリ・ディキンスンに「わたしが死んだとき蝿(はえ)の羽音が聞こえた」なる一行で始まる詩がある。やがてその響きは奇妙にもこう形容される——「青く、ふたしかでよろめくような羽音」。
そう、ここでは音に色がついている。だが、これが必ずしも言葉の錬金術ではなく、先天的に一つの刺激から複数の感覚が生じる能力を持ち合わせ、視覚や聴覚、嗅覚(きゅうかく)などの五感が入り乱れる「共感覚」(synaesthesia)を生きてきた人々の証言だとしたら?
最相葉月はかつて『絶対音感』(1998年)で、いったん平均律を基準に叩(たた)き込まれてしまった絶対音感は音楽習得に有利なこともあれば不利なこともあるという両義性を鮮やかに記述したが、いっぽう心理学者ハリソンが行動科学や統計学、解剖学、生理学、分子生化学の理論を援用しつつ2001年に上梓(じょうし)した本書は、共感覚の保持者の豊かで恵まれた創造力を評価し、これは環境や訓練によっても習得できるのではないかと真剣に模索する点で、抜群におもしろい入門書である。
とくに興味深く読んだのは、第5章において歴史上著名な芸術家たち、たとえば詩人ボードレールやランボー、作曲家スクリャービン、映像作家エイゼンシュテイン、抽象画家カンディンスキー、物理学者ファインマン、それに俳人・松尾芭蕉らが、共感覚の視点から分析されている点だった。彼らが先天的な共感覚者であったのか、それとも共感覚的表現をメタファーとして駆使できる芸術家であったのかが、ここでは慎重に吟味される。
いちばんスリリングだったのは、ロシア系アメリカ作家で、かの『ロリータ』(1955年)の著者ナボコフが、母親から共感覚を譲り受け、それは自身の息子にも遺伝したという事実だ。彼には、英語の長母音のaは「乾燥した木の色合い」だが、フランス語のaは「磨いた黒檀(こくたん)」に見えたという証言を聞けば、そもそも文学における言語遊戯自体がこれまでとはまったく別の「色合い」を帯びるものとして、実感されるだろう。
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松尾香弥子訳/John Harrison 心理学者。英国の大学で研究に従事。