■生命倫理で、せめぎあう「個」と「公」
著者が昔、チベットの寒村に出かけたときの話を旧作『知政学のすすめ』で読んだことがある。鳥葬の風習をもつその村で、老人が臨終の床にあった。ところが同僚の医師が診察したところ、一瞬の治療で延命する。著者は晴れがましく思ったが、すぐに考え直す。
自分たちは今、彼らの死にゆくプロセスの文脈を壊したのではないか。科学技術の浸透は止められないが、素朴な善意から無意識に彼らを助けることと、科学技術の浸透を彼らが歴史的文脈の中で咀嚼(そしゃく)する大切さを意識していることの間には天地の開きがある、と。
以来、生命倫理の諸問題を政治課題として扱うことの重要性を説いてきた著者の言動には、常にこの問題意識が流れているように思う。本書でも変わりない。ただあえて「バイオポリティクス」という言葉を提示したことに、最も大きな意味があるのではないか。
そもそもバイオポリティクスとは、フランスの哲学者M・フーコーの言葉で、国家権力が公衆衛生や健康水準、出生率などを調整的に管理する政治を意味する。著者はフーコーの言葉をふまえつつ、その先を見据える。
背景には、ヒトゲノム研究や発生工学の急展開で、科学研究の主軸が物理科学が射程とする「外なる自然」から身体という「内なる自然」へ移行したこと。さらに、身体が分解・解体され、素材として編集される対象となったことがある。このため医師と患者の関係を規定する「インフォームド・コンセント」(説明と同意)や「自己決定」(自分がよければいい)といった米国発の生命倫理学(バイオエシックス)の考え方では対処できない事態が顕在化した。人体の商品化は商業主義が「自己決定」を巧みに利用した結果であり、臓器移植ツアーや韓国の論文捏造(ねつぞう)事件で発覚した卵子の大量採取などは、経済格差に起因する南北問題だ。
本書は、身体の処分権をプライバシーの範疇(はんちゅう)とみなす米国型自由主義を反面教師に、「連帯」という新たな価値を見いだした欧州の動向をたどりつつ、日本が取り組むべき政策を示す。生命倫理的課題には、個人の自由より上位に「公序」が位置する場合があることを確認し国内法を整備したフランスの議論が、人間の尊厳を規定する「EU憲法」案の生命倫理原則に結実する経緯は示唆に富む。
ただ、ナチス優生学を知る私たちは、国家が人体を管理することをどう正当化できるかという問いに直面するだろう。市民の監視下に置くとしても具体策はない。「人類全体が準備不足」という著者は、まず社会の側が独立した複数のシンクタンクをもつことを提案する。アジア諸国との比較研究も喫緊の課題だ。在野で30年、科学政策の比較分析に徹した著者の実体験から確信した方法論だろう。
それにしても、日本でなぜこの手の議論が高まらないかを問う必要はある。男女産み分けにしても代理出産にしても「自己決定」が肥大した「個」のままで止まっている。科学技術の浸透をただ眺めるだけならチベットの教訓は生かされない。「公」の心を取り戻す力となるのもまた「個」だという著者に挑発された、新しい「個」の誕生を期待する。
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よねもと・しょうへい 46年生まれ。専門は科学史、科学哲学。『知政学のすすめ』で吉野作造賞を受ける。現在は、科学技術文明研究所長。