■「何げなさ」の背後に複合的な歴史
旅先で、何の気なしに絵はがきを買い求める。風光明媚(ふうこうめいび)な観光名所なら、なおのこと。しかし、その裏側にこれほど複合的な歴史がひそんでいたとは——。
そもそもわたしたちは、古き良き紙メディアがやがては新しい電子メディアに取って代わられるかのように思いこみがちだが、こと絵はがきに関するかぎり、それは錯覚にすぎない。著者はまず、近代郵便制度の幕開けである一八四〇年とともに世界初の郵便切手が発行されたことを確認するが、このときの郵便物はまだ封書のみ。そして、ほんの数年後の四四年には、郵便以上に簡便なモールスによる電信機が実用化されている。
ところが、まさにこの電報こそが、封書よりも気軽な形式としての郵便はがきの必要性を痛感させ、ついに一八六九年のウィーンで、世界最初の郵便はがきに関する規則が制定され、イギリスでは七〇年、アメリカおよび日本では七三年に、規則の制定とともに、はがきの使用が始まるのだ。そして二〇世紀初頭より、絵はがきの消費量は一気に増大する。
かくして本書は、ひとまず透かし絵はがきや立体写真絵はがき、ジャポニズム絵はがき、災害速報絵はがきなどの形態と意味を緻密(ちみつ)に追う精確きわまる文化史として読むことができるが、まったく同時に、ルソーから漱石までを読みなおす新たな文学史の可能性も孕(はら)む。
だが、わたしがいちばん感銘を受けたのは、本書がバルトやデリダ以後の理論を承(う)けて、絵はがきとはまさに送り先である相手がその観光名所に不在であり、「あなたにここにいてほしい」という情緒に支えられているからこそ書き紡がれる、という洞察だ。
さらに著者は、明治から大正のころとおぼしき一枚の美人絵はがきに画鋲(がびょう)の跡があることに着目。写真の中で髪を直す婦人の視線と所有者の視線とを調べていくと、絵はがき自体がもうひとつの鏡を演じているのがわかるという、フーコーばりの哲学史的な思索を展開しており、そのあざやかな推論には深く感嘆せざるをえなかった。
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ほそま・ひろみち 60年生まれ。滋賀県立大助教授。著書に『浅草十二階』ほか。