■秘密読書会で読む「禁制文学」
イスラーム革命後のイラン・テヘラン。ホメイニー師率いる新体制が、監視の目を光らせる息苦しい社会のなかで、大学を追われ、一切の教職から身をひいた著者が、密(ひそ)かに開いた読書会。そのメンバーは、「傷つきやすさと勇気が奇妙にも同居」する、皆、どこか一匹狼(いっぴきおおかみ)的な女子学生7人だった。
彼女たちは、ほぼ毎週、木曜日の朝、著者の自宅に集っては、ナボコフやフィッツジェラルド、ヘンリー・ジェイムズ、オースティン……などを読む。室内に入り、着用を義務付けられた黒いコートとヴェールをぬぐと、その下から現れるのは、鮮やかな色彩、官能的な肉体、そして裸の個の精神だ。
西欧的な価値観を持つものは、退廃的と批判され、反イスラーム的とみなされれば、直ちに逮捕・投獄。安易な処刑・暗殺もたびたび。そういうなかで、西洋の小説を読むのは、ひどく危険な行為である。外国書籍は流通をとめられ、本屋からは、外国文学が消えていくような状況にあった。
革命の翌年には、イラクとの戦争も勃発(ぼっぱつ)。心身の自由を奪われたとき、ひとは生きているという感覚を失う。そして、外側で形作られている異常な「現実」に拮抗(きっこう)するほどの、もうひとつの「現実」=小説世界を求め、そのなかで、鮮明な生の感覚をとりもどしたいと願うのだ。
彼女たちは、ナボコフの「ロリータ」を、いま、このとき、このイランという国で生きる「わたし」の立場から、ダイナミックに読んでいく。多くの人が読んできたような、中年男ハンバートが少女・ロリータに対して抱く妄執や恋愛の話ではなく、「ある個人の人生を他者が収奪した」悲哀の物語として、徹底的に、ロリータの側に立って読むのである。この国で女であることの生き難さが、一人の人間が誰かの「夢の産物」となってしまうことへの憤りへと通じ、その哀(かな)しみに切実な共感を広げていく。
著者は言う。「小説は寓意(ぐうい)ではありません。それはもう一つの世界の官能的な体験なのです。……彼らの運命に巻き込まれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って」
感情移入とは、なんと懐かしい言葉だろう。そしてこれはなんと普遍的に響く言い方だろう。もしかしたら、わたしたちがなくしかけているのも、この素朴な行為、あらゆるものへの感情移入なのかもしれない。
全体主義を憎み、抗(あらが)い続けた著者は、やがてイランを離れアメリカへ渡る。けれど負った傷、様々な思い出は、記憶のなかから消えるはずもない。理不尽な処刑で死んだ学生もいる。読書会のメンバーはといえば、国を出て結婚し子供を産んだ者もいるし、国に残った者たちは、その後も集まり続け、本を読み、書き、ある者は教職についたとある。生きることと読むこととの熾烈(しれつ)な関(かか)わり合い。フィクションの力を改めて信じたくなる。透徹な勇気を与えられる本である。
◇
市川恵里訳/Azar Nafisi ジョンズ・ホプキンズ大教授。テヘラン生まれ。欧米留学後テヘラン大教員。81年に同大から追放。現在米在住。