■痛快に、まっとうに、正論でなく!
痛快という言葉は、この本のためにある。いや、この著者のためにある。こんなにもまっとうなことを、まっとうな言葉で、真っ正面から、ずけずけと書いてしまう著者はすごい。まっとう、とはいっても、正論ではない。正論ではないところが、おもしろいのである。
たとえば著者は、ゴミを出してと言われなければ出さない男を罵倒(ばとう)する。そういう男に育てた女親を罵倒する。美人を信奉する男を罵倒し自分の選択を棚に上げて愚痴る女を罵倒する。上から見て罵倒しているのではない、横から見て罵倒しているのである。いついかなるときも、老若男女森羅万象に至るまで、著者は横から、つまり同じ地平に立ってもの申している。武器も防具も身につけず、体裁や面子(メンツ)なんてかなぐり捨てて、裸んぼうのすっぴんで、正々堂々と。
あまりの痛快さに、つい、私も本当にそう思っていた、と思いそうになってしまうが、それは嘘(うそ)である。著者の言葉に目を開かせられ、自分もずっと同じことを考えていたような気になっているだけだ。自分以外のものを見下げず見上げず、関係ないと断じることなく、同じ地平に立ち、そこから言葉を放つことはとても難しい。痛快なのは、歯に衣(きぬ)着せぬもの言いではない、何にも曇らされることのない著者の目線が、武器も防具も用意せず闘いにいくその姿勢が痛快なのである。
正論は書かれていないが、しかし、真実は書かれている。まっすぐな目線は最短距離で真実を射抜くように照らす。あとがきを読むと、10年以上前に書かれたエッセイとあるが、しかし時代とともに後退していくところがまるでなく、反対に、現在をこそ書いていると思う。人が人らしく生きることとはどういうことか。「美しいばかりではないこの世を生きて行く力や希望を持つ」ことがどういうことであるのか。「スポーティ過ぎる」言葉の合間から、そうしたことが透けて見えてくる。おそらくあと20年後に読み返しても、おんなじことを思うんじゃないか。真理とはそうしたものだ。
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さの・ようこ 38年生まれ。絵本作家。『神も仏もありませぬ』など。