■居心地のいい関係をていねいに描く
たとえば三年前のことを思い出そうとするとき、まずできごとが思い浮かぶ。だれそれが結婚した、離婚した、子を産んだ、転職した、等々。けれども実際の日々は、できごとの隙間(すきま)の、だれかとの他愛(たわい)のない会話とか冗談とか、言葉にする必要もなかった思いとか、淡々と消えていく想像とか、そうしたものでできている。本書は、できごとの合間のそうした隙間、決して写真には残らない瞬間を、ていねいに描き出した小説である。
主人公の市子は、幼なじみの奈津から、小学生の娘美月を数日預かってほしいという電話を受ける。奈津の夫であり美月の父である憲吾が、突然姿を消したというのである。小説は、憲吾の行方を追いながら進行するかに見え、その実、市子と奈津、そのほか、風来坊のような恋人を好きでたまらないまりちゃんや、恋多きゲイの三宅ちゃん、彼らからちょっと疎まれている辻房恵など、昔ながらの友人たちの、わさわさとした関係が描かれていく。
彼らの関係が見えてくるにつれ、時間の流れがくっきりとあらわれてくる。彼らの共有したエピソードが丹念に書かれているわけではないのに、市子と奈津とまりが過ごしていた高校時代が、恋愛や仕事について語り合っていた夜が、奈津の結婚と出産を祝福した瞬間が、幼い美月を交えて遊んでいたまだ若さを残す時間が、まるで私自身もそこにいたかのように、濃いなつかしさと淡い生々しさを持って、たちあらわれてくる。
『水の繭』『チョコリエッタ』など、これまでの作品で、著者はいつも、居心地のいいシェルターのような場所を描いてきた。ときに幻想的に、ときに昨夜の夢のように。この小説でも、居心地のいい場所を描いているのは変わらないが、それはシェルターではなく関係のなかにある。
友情という言葉をいっさい用いず、それよりもはるかに強く、はるかに美しいものを描き出した。時間、という手出しのできないものを、さりげなくも完璧(かんぺき)に、私たちの味方につけてしまった。
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おおしま・ますみ 62年生まれ。作家。著書に『ほどけるとける』『羽の音』など。