■高度成長目前 細やかな日常を記す
戦前、日本の委任統治領だったサイパン島について取材していたとき、当時の南洋群島の漁業を担っていたのは沖縄の糸満出身者にほかならなかったと知り、驚嘆の溜(た)め息をついたことがある。
糸満漁民は、本書によると、はるかシンガポールやインドネシアにまで赴き、かの地では1年のうち11カ月を海の上で送っていた。
「潜って耳をたてて魚の泳ぐ音を聞いただけで、だいたい何1000斤の魚がいるかわかったものです」
唖然(あぜん)とさせられる証言も、本書には出てくる。これに限らず、魚群を追って移動してきた漁民たちが開いた村は、全国に多いという。漁民とは、つまり狩猟民なのだと、私は改めて思い知らされた。
著者は、近年再評価の著しい民俗学者・宮本常一の直弟子である。宮本の勧めで、1970年代前半から各地の沿岸漁村を巡り始め、80年代後半まで詳細な調査を続けた。そこから選び抜かれた記録をまとめた本書は、宮本の名著『忘れられた日本人』の漁民版にたとえられるかもしれない。
一例をあげると、東北・下北半島の漁村の神社で、権現さまの能舞いがある。だが、権現さまは熊野、つまり紀州の神様だ。紀州は古来有数の漁業地。とすると、下北半島は漁民を通じて、遠く紀州とつながりがあったのではないか。こんなふうに小さな糸口から、著者は推理の羽を広げてゆく。著者と共に、こうした発見を重ねる喜びが、随所にある。
しかし、人々が風土に寄り添いながら、暮らしの知恵をつむいできた木目細やかな日常は、高度成長下の「便利さ」という巨大な潮流に押し流されてしまった。その寸前の日々を、タイムリミットぎりぎりのところで、著者は哀惜をこめて記録したのである。
沖縄・石垣島の海辺で、鮮やかな落陽に染め抜かれつつ、漁から無事に帰ってきた男たちを出迎える女たちの姿が「忘れられない」と著者は書く。その筆致からは、画家ミレーの「晩鐘」を前にしたときのような、静かな祈りの、声なき声が聞こえてくる。
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もりもと・たかし 45年生まれ。漁村社会を中心とする民俗学研究者。