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書評

5 [著]佐藤正午

[掲載]2007年02月18日
[評者]池上冬樹(文芸評論家)

■物語の森、どこに連れられていく?

 小説を読みながら何度もため息をついた。ゆったりとした語りなのに、文章は張りつめていて、軽い昂奮(こうふん)を覚えてしまうからだ。佐藤正午が抜群の語り部であり、賞には恵まれないものの文壇で五指に入る「小説巧者」であると僕は断定するけれど、それでもあらためて新作に出会うと、五指ではなくベスト3、いやそれ以上ではないかと思ったりする。

 物語は、印刷会社に勤務する中志郎が妻とバリ島に行く話からはじまる。そこで中志郎は不思議な体験をするのだ。故障したエレベーターの暗闇の中で、ある女性とふれあい、妻に対する愛情が甦(よみがえ)るのである。結婚して八年、倦怠期(けんたいき)にあり、ベッドをともにすることも厭(いと)わしかったのに、急に積極的になる。

 そんな夫婦の話をきかされたのが、小説家の津田伸一である。津田はその事態に影響をうけ、やがて作家として窮地にたたされる。

 物語の運び方からして、さりげなく巧妙である。三人称一視点で始まりながら、やがて小説家の「僕」が出てきて(この登場が絶妙だ)、複雑な人間関係の一端を示し、さらに自由に人物を出し入れして、なんでもない挿話を積み上げていき、それぞれの危うい人生の基盤を見せていく。危うさとは、佐藤作品の人物たちが抱く、ありうる(ありえた)かもしれない別の人生への思いである。

 たとえば、過去の人生の分岐点にたって別の人生を歩む『Y』、失踪(しっそう)した恋人の行方を捜しながら自分の人生の選択肢を考える『ジャンプ』を読めばわかるだろう。偶然がおりなす人生でありながら、人はいくつもある選択肢のなかからひとつを選び取り、「未来」を決めていく。だが、その選択は正しいのか、過去において選びとった「未来」=「現在」に満足しているのか? と考えるのである。

 こうして人物たちは迷いだす。それは読者にとっては物語の森の中に迷いこんだような感触である。だがこれがいい。物語の森の愉悦をたっぷりと味わわせてくれるからだ。物語の森といってもロバート・ゴダード(『千尋の闇』)に代表される物語の万華鏡ではなく、道がいくつもあり、自分がどこに連れられていくのかわからない昂揚と期待である。

 今回は「僕」にしろ、中志郎にしろ、読者が共感をよせる人物像ではない。「僕」は出会い系にはまり、恋人がいるにもかかわらず、次々に新しい女性と関係を結ぶし(だがこの辺の、多彩でどこか歪(ゆが)んだ女性たちとの挿話が実に読ませる)、中志郎はもうひとつ何を考えているかわからないところがある。

 それでも物語に惹(ひ)きつけられるのは、錯綜(さくそう)した人間関係が動き、不都合な方向へと細部が組織化されていき、ある女性がもつ特殊な能力で眠っていた記憶が覚醒(かくせい)し、いちだんと人生の可能性が拡大されるからである。

 物語の核心にふれるので曖昧(あいまい)に書くが、これはある種の苦い恋愛小説である。永遠の愛を謳(うた)うものではなく、世界のひとつの真理として、むしろ愛は醒(さ)めるものであることをアイロニカルに描いている。病気と涙と感動のない所で愛を語る、反『世界の中心で、愛をさけぶ』ともいうべき洗練の極致の秀作だ。

    ◇

 さとう・しょうご 55年生まれ。作家。83年、『永遠の1/2』ですばる文学賞を受賞し、デビュー。著書に『Y』『ジャンプ』ほか。


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