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書評

悪人 [著]吉田修一

[掲載]2007年05月13日
[評者]重松清(作家)

■「ひとの気持ちの匂い」細心に重ねる

 物語の最終盤で、若い登場人物が言う。〈俺(おれ)、それまでは部屋にこもって映画ばっかり見とったけん(略)人の気持ちに匂(にお)いがしたのは、あのときが初めてでした〉

 生身の人間だからこそ持つ、気持ちの匂い――吉田修一さんは、それを、幾重にもかさねて立ちのぼらせる。一つの殺人事件を軸に、加害者、被害者、そして双方の家族や周囲のひとびとの屈託した思いやまっすぐな感情を、視点を移しながら描いていく。

 といっても、吉田さんは決して神の視点に立っているわけではない。引用部分でも明らかなとおり、事件の舞台でもある九州北部の方言をむきだしにした登場人物の語りをそのまま、ごろん、と投げ出す。三人称の場面でも物語の運び手に徹して、作者自身の気持ちの匂いがいたずらに漂わないよう、細心の注意が払われている。

 おそらく吉田さんは知っているのだ。加害者本人や家族の視点を物語に組み込むと、おのずと「同情」めいたものが読み手の胸に生まれてしまうことを。そこから「罪を犯した者にも孤独や悲しみがあったのだ」という方向に読者を導くのはたやすい。逆に被害者サイドの物語からでも「同情」を醸し出すことは容易だろう。

 だからこそ、吉田さんは自らの声を消し、匂いを消したのではないか。ともすれば安易な「同情」のセンチメンタリズムに陥りかねない結構を持つ物語に、吉田さんは甘えを許さない一線を引いた。作者自身ですら踏み込めない結界をつくった。それが登場人物の一人語りではないのか?

 作者の案内なしに、読者はさまざまな気持ちの匂いをまっさらなままで嗅(か)ぐことになる。ふだんナビゲーターとして重宝しているワイドショーのコメンテーターも、そこにはいない。被害者、加害者、関係者それぞれの匂いが渾然(こんぜん)一体となった果てに「悪人」の一語が、哀切なクエスチョンマークとともに浮かび上がる。その問いに対する答えは読者一人ひとりに委ねられる。これは、読み手の「私」の気持ちの匂いを問われる物語でもあるのだ。

    ◇

 よしだ・しゅういち 68年生まれ。作家。『パーク・ライフ』で芥川賞。

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