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書評

ニコライ堂遺聞 [著]長縄光男

[掲載]2007年05月13日
[評者]野口武彦(文芸評論家)

■日本人の対ロシア感情と命運を共に

 神田駿河台に特徴のあるドーム型屋根が聳(そび)えるニコライ堂(東京復活大聖堂)は、建物としては二代目である。

 明治24年(1891)に建立された最初の聖堂は今のものよりサイズが大きく、地上40メートル(現35メートル)の高さに鐘楼がそそり立ち、低い家並(やなみ)の東京を睥睨(へいげい)して威容を誇る都市のランドマークだった。

 地上の景観ばかりでなく、ニコライ堂は明治の思想史地図でもユニークな位置を占めている。本書によれば、明治中頃の全盛期、ハリストス正教会の信徒数は約三万、カトリック六万、プロテスタント4万と伍(ご)して全キリスト教徒約13万の23%に達していたという。意外に比重が高かったのである。

 著者は創立者のニコライ、その後を嗣(つ)いだセルギイを始め、日本人信徒の小伝を綴(つづ)って正教会の歴史をたどる。個々のエピソード自体は門外者には多少こまかすぎる点もあるが、時代の大きな波動は、そうした人生小劇場の連なりを介して現象するものだ。

 ハリストス正教が根付いたのは幕末に開港された箱館(函館)である。ニコライの布教は、この地で起きた明治政府軍と旧幕府軍との戦闘を信仰と不信心との「霊界戦」に導いた。初期の信徒層が戊辰戦争の敗者たる佐幕諸藩の士族を中心に、東北地方で「燎原(りょうげん)の火」のように広がったのも理由なしとしない。

 宣教の線はすぐに東京に伸び、神学校はロシア語学校を兼ねていたので、世俗界へも「ニコライ派」と呼ばれる知識人群が輩出し、陸軍や早稲田大学でロシア語を教えた。

 だが間もなく、日露戦争を転機に受難と迫害の季節が始まる。ニコライにロシアのスパイの嫌疑が掛けられ、多くの信徒が離反する。最大の打撃はロシア革命が勃発(ぼっぱつ)して本国からの資金援助が途絶えたことだった。そこへ関東大震災で聖堂は倒潰(とうかい)・焼失。セルギイによる再建。正教会の運命は日本人の対ロシア感情と共に激しく揺れ動く。

 印象に残るのは、セルギイが革命後のモスクワと絶縁した日本正教会から追われ、陋屋(ろうおく)で孤独死する姿だ。

     ◇

 ながなわ・みつお 41年生まれ。横浜国大名誉教授。著書に『ニコライ堂の人びと』など。

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