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書評

パニック都市 [著]ポール・ヴィリリオ

[掲載]2007年05月27日
[評者]橋爪紳也(大阪市立大教授・建築史、都市文化論)

■「事故の博物館」である現代に警鐘

 ポール・ヴィリリオは、日本では本来の専門である建築家や都市計画家ではなく、ドロモロジーすなわち「速度」の視点から人類文明に警鐘を発する情報論者として知られているのではないか。

 ヴィリリオは、02年から翌年にかけて、パリの美術館で「これから起きるかも知れないこと」と題する展覧会を企画した。その核となる概念が「事故の発明」である。技術が進み、新しい装置が普及すると、従来は想定もされなかった「事故」が生産される。進歩と大惨事とは表裏一体という認識である。

 いうなれば、私たちが謳歌(おうか)している文明の臍(へそ)であり、中心である巨大都市は、やがて起きるであろう大惨事を随所に潜ませた「事故の博物館」である。私たちは「20世紀最大のカタストロフ」である都市のただなかで、暮らすことを強いられているというわけだ。

 都市をめぐる論考を中心に編まれた本書は展覧会と響きあう論集と考えてよい。

 「破滅」を主題にした冒頭の章は、パリとナントという二都市の往還から書き起こされる。ヴィリリオは1930年代のパリで平和な幼少期を過ごし、10歳の時、ドイツ占領下のナントで空爆の恐怖を体験した。

 近代以前の大規模な戦闘の多くは「野戦場」という名の場所で展開された。しかし100年前からはあらゆる都市が雷火の標的になった。20世紀とは市民に対する戦闘がテストされた時代である。「事故の博物館」である都市にとって最大の災いは戦争という名の大量殺戮(さつりく)なのだ。そこには、空を占拠する者が都市を制圧することを目撃したナントでのヴィリリオの体験が重なってくる。

 いっぽうでグローバリゼーションがもたらす危機についても多彩に論じる。私たちは国家を単位とする「多極的で解放された国際性」から、電脳空間という「ヴァーチャルで単極的な世界」への変化を受容している。「もはや、〈国家〉の境界は都市の内部に移動する」とヴィリリオは述べる。それは領土拡大ではなく、閉域化した世界の内部を植民地化しようという動きである。

 世界は果てしなく拡大し境界を失いつつある。かたや、内側では様々な分断が進み、セキュリティーで護(まも)られた北米の高級住宅地のようにみずからを外部と遮断する。拡張と自閉、両極端に向かうように見えて、行きつくところは等しくローカリティの消滅という地平だ。その最終的な状況をヴィリリオは「場所の黄昏(たそがれ)」と呼び、「砂漠」にたとえる。

 これまでのヴィリリオの著書と同様に分かりにくく、要約を拒む文体だ。ただ書物全体にちりばめられた記述とイメージから、大惨事を内在しつつ不毛な砂漠へと邁進(まいしん)する都市への問題提起を受け取ることができる。

 ヴィリリオは、アメリカの象徴である摩天楼を「垂直方向の袋小路」とし、そのような「ビルディング国家」の政治も同様の状況にあると看破する。彼が少年期に、空を占拠した連合国軍からの攻撃を体験したことは示唆的である。本書は、9・11以降の世界の動向に対する著者なりの警鐘にほかならない。

    ◇

竹内孝宏訳/Paul Virilio 32年生まれ。『トーチカの考古学』以来、テクノロジーと芸術と戦争とメディアに関する数多くの著作を発表。

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