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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]北田暁大> 記事 書評 滝山コミューン 一九七四 [著]原武史[掲載]2007年06月10日 ■集団主義的理想の欺瞞を浮き彫りに 本書は、とても繊細で美しく、そしてまた独特の苦みを持った、郊外空間をめぐるドキュメンタリーである。舞台は、62年生まれの主人公=著者が、69年から75年まで、つまり小学1年から中学1年までの6年ほどを過ごした東京都東久留米市の滝山団地。この団地と、この団地の児童が圧倒的多数を占める市立第七小学校に生起する日常的な出来事群を、小学生の頃の著者の目を通して読者は追体験することとなる。 ただ、ここで書きとめられている出来事は、泥まみれで野山を駆け巡ったり、友人と殴り合いのケンカをしたり、といったいわゆるノスタルジーを喚起させるものではない。7〜8人によって構成される班に分かれ、勉強や生活、課外活動などで競い合ったり、委員長、書記などを含む代表児童委員会役員を選挙によって選出したり、学校空間とは異質の論理に貫かれた中学受験の塾に通ったり……といった具合に、本書に描かれている風景はとても「現代的」なものだ。本書は、著者自身が持つ記憶と記録、インタビューなどをもとに、原少年(子ども)の視点を再構成しつつ、その視点と現在の著者の視点とを折り重ねながら、「現代的」風景の複雑さを精細に描写している。 著者が「滝山コミューン」と呼ぶのは、校内暴力やいじめといった問題が現れる直前、「戦後民主教育のオプティミズム」を維持することができた最後の時期に、全生研(全国生活指導研究協議会)が唱える「学級集団づくり」を実践する教員と、「革新的」な団地の住人、その子どもたちによって実現された教育・生活空間である。理想に燃えたこのコミューンのさなかを生きた著者にとって、コミューンの記憶は「暗く苦いものとして」、30年間、心の奥底に沈殿し続けてきたという。 班や委員会を単位とした集団生活、林間学校での合唱と「火の神もいなければ火の子もいない」平等主義的なキャンドルファイア。善意に溢(あふ)れた集団主義的理想は、様々な形で生徒の身体と思考を管理し秩序化していく。権力に抗して「子どもたちのために」なされるという教育が、別様の権威主義を呼び込むという逆説を、原少年は鋭く読み取り、コミューンに対して冷めた視線を投げかける。原少年はやがて私立中学へと進学し、息苦しさすら感じさせるコミューンから離脱することとなる。「革新」的な理想主義の欺瞞(ぎまん)を、少年のまなざしを通して浮き彫りにする、優れた批判書ということができるだろう。 しかし、著者にとってコミューンの記憶は「暗く苦い」ものであると同時に「懐かしさを伴わずにはいられないもの」でもあるという。そのアンビバレンツ(両義性)こそが、「現代的」風景を描写するさいの繊細さと濃度を生み出しているのではなかろうか(もちろん歴史家としての著者の高い手腕によることはいうまでもないが)。70年代・郊外の団地に現れたコミューンの観察を通して「戦後思想史の一断面」を照射する貴重な証言の書である。 ◇ はら・たけし 62年生まれ。明治学院大学国際学部教授。日本政治思想史。主な著書に『「民都」大阪対「帝都」東京』『大正天皇』など。
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