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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]久田恵> 記事 書評 寺山修司と生きて [著]田中未知[掲載]2007年06月17日 ■鬼才の不在を納得するまでの20年余 本文の前に、こう記されている。 「未知、きみは個有名詞じゃない。ぼくとの共通名詞である。一緒につくった一つの存在です。――寺山修司」 詩人で劇作家の寺山修司は、すでにこの世を去っている。24年前、47歳で。その彼からこのような言葉を贈られた女性とは誰なのか? 著者、田中未知は、60年代に大ヒットした寺山修司作詞の「時には母のない子のように」の作曲者である、と言えば、思い出す人は多いかもしれない。 さらに、詳しく記せば、寺山が結成した演劇実験室「天井桟敷」の制作、照明を担当。その傍ら、個人秘書として、16年、彼を公私に亘(わた)って支え、死を看取(みと)ることとなった女性である。 そして寺山を喪(うしな)った3年後。彼女は、周囲にあて先も告げずに日本を脱出。オランダの田舎で、畑を耕して暮らし、夏にはテントを携え、ヨーロッパの山々を旅して回る日々を送っていたという。 本書は、そんな著者の24年間の沈黙を破る「寺山修司と自分」を語る本である。 寺山修司が、何をしようとし、なにを成しとげ、(他者から)なにをされたのか。寺山作品批判への反論、伝記作品の誤りの指摘、寺山の母の横暴への怒り、彼を救わなかった医者の告発など。衝(つ)かれたように書き綴(つづ)ってある。 まるで、寺山修司の分身のごとく。まるで、寺山修司が、つい昨日まで、すぐ傍らにいたかのように。 沈黙は、「私に静謐(せいひつ)をもたらすことはなかった」と記されているが、彼女にとってこの20年余は、この世界に「寺山修司」が不在であることを納得するために必要な時間だったのだろう。そして、不在の「寺山修司」を探し続けて見つけたのは、「死んだ人は、みんな言葉になる」ということの実感だった。 自分の職業は「寺山修司」であり、人生の大半を自分のことより彼のために使った、と言い切る著者の想(おも)いの強さに打たれざるを得ない。 「田中未知」は、鬼才寺山修司が、彼流のやり方で、この世に残していった作品である、そんな思いがした。 ◇ たなか・みち 45年生まれ。「天井桟敷」の制作・照明を担当、寺山の秘書も務めた。 ここから広告です 広告終わり 書評 バックナンバー
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