ここから本文エリア

RSS

現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]巽孝之> 記事

書評

ロバート・アルトマン―わが映画、わが人生 [編]デヴィッド・トンプソン

[掲載]2007年07月22日
[評者]巽孝之(慶應大学教授・アメリカ文学)

■独自の「群像劇」監督雄弁に語る

 好きな映画といったら、ふつう作品ひとつひとつで決まる。だが、何の気なしに観(み)て夢中になった作品のいくつかが、たまたま同一の監督の手になるものとわかる体験が何度も続けば、偶然は偶然ではなくなる。そのとき初めて、自分の好きな監督の固有名が、神話的な輝きを帯び始める。こうした特権的地位を占める映画監督のひとりが、わたしにとってはロバート・アルトマンだった。

 1925年、アメリカはミズーリ州カンザス・シティのドイツ系カトリック家庭に生まれ、反ハリウッド系インディーズの代表格となり、独自の「群像劇」で広く影響力をふるった男。

 スー族酋長(しゅうちょう)シッティング・ブル、西部興行師バッファロー・ビルからリチャード・ニクソン大統領、それに画家ヴァン・ゴッホまで、歴史上の挫折者たちに何らかの犠牲者のすがたを洞察し共感し続けた男。

 そして、ヴェトナム戦争の渦中に、とびきりのブラックユーモアを刷り込んだ戦争映画『M★A★S★H』(1970年)から30年代英国カントリーハウス殺人事件を扱った豪奢(ごうしゃ)なるミステリ映画『ゴスフォード・パーク』(2001年)まで、華麗な受賞歴を重ねるも、昨年2006年、遺作『今宵(こよい)、フィッツジェラルド劇場で』の発表を機会にようやく、最初にして最後のアカデミー賞(名誉賞)が授けられるに至った男。

 本書は、いまもなおポール・アンダーソンら崇拝者が後を絶たない、映画監督のための映画監督その人が、自己の映像世界をあますところなく語った画期的メモワールである。

 その「群像劇」の基本は、あたかも浜辺で「砂の城」を建てるがごとき、儚(はかな)くも美しい一瞬の夢をめざすものであり、それは具体的には、対位法やフーガを基礎にジャズ的即興演奏を展開していくのにも似た、いわば音楽的方法論で映像を再構築するものである。何しろ、初期の実験的作品『イメージズ』(1972年)で主演を依頼したスザンナ・ヨークが、妊娠を理由に出演を断ってきたときにも受けつけず、あっさり主演の役柄を妊婦に変えてしまったのだという。

 こうした即興的解決は、文学と映画の折り合いをつけるさいにも発揮される。

 たとえば、ハードボイルドの巨匠レイモンド・チャンドラーの名作を映像化した『ロング・グッドバイ』(1973年)で強調される「堕(お)ちた偶像」の背後には、グレアム・グリーン原作、オーソン・ウェルズ出演の『第三の男』が介在していたこと。たとえば、レイモンド・カーヴァーのミニマリズム文学全体を一個の物語体系と見なすという神業を発揮した『ショート・カッツ』では、原作には存在しないジャズ・シンガーのテスと、その娘でクラシック・チェリストのゾーエという母娘が活躍するが、そこにはカーヴァー夫人であったもうひとりの才能豊かな作家テス・ギャラガーが投影されていることなど――。

 アルトマンの映画そのものが高度な文学批評になりえていたゆえんをも、本書は雄弁に語ってやまない。

    ◇

 Altman on Altman

 川口敦子訳/Robert Altman 米映画監督。06年死去。/David Thompson 芸術に関するドキュメンタリスト、ジャーナリスト。

ここから広告です

広告終わり

このページのトップに戻る