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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]久田恵> 記事 書評 思考のエシックス―反・方法主義論 [著]鷲田清一[掲載]2007年07月22日 ■難解でも癒やされる「哲学の言葉」 むずかしい本である。 この本を理解するために必要であるらしいフッサールの「現象学」ってなに? というような私が読んでどうするの? という本である。 が、「分からない」本を読む面白さというものがある。 とくに著者が鷲田清一というのがいい。言葉と文体が好ましく、癒やされるのだ。 「思考の緻密(ちみつ)さは思考の器官がみずから磨くナイフとしての『方法』によって極められるものなのか」とか。「ナイフではなくて絨毯(じゅうたん)のような、目のつまった濃(こま)やかなまなざしというものがあるのではないか」とか。 意味はよく分からなくても、ウーム、しびれる。 また、「人間をただ人間として愛するということは、はたして可能なのであろうか」とあれば、思わず本を閉じ、「だったらヒューマニズムってなに?」と、私の思いを浮遊させていったり、「自由とは?」「国家とは?」と、深夜に、ひとり、女がキッチンで頬杖(ほおづえ)をついて、物想(ものおも)いにふけったり。そんなかけがえのない時間を持つことができる。 ただ、むずかしい本を読むには、著者への信頼が不可欠だ。世間には内容の不備を隠蔽(いんぺい)するための難解さもあり、むずかしい、というだけで尊重してしまう向きもある。 その点、本書は保証付き。著者には、『「聴く」ことの力』という名著があり、母の介護で心身が弱り果てていた頃、その本によって救済されたという深い体験がある。 鷲田清一は、フツウの人の生きる現場を支える「哲学の言葉」の持ち主なのである。 そして、この本はその「臨床哲学」という領域を提唱する著者の立ち位置を知るためにも必要な論文集だ。 それにしても、哲学の専門家であるということは、なんと困難なことか。カントとか、スピノザとか、哲学史上のさまざまな著名な学者たちの言説を批評的に読み解かねばならない。 そのためにどれほどの「知力」が求められるのだろう。そう思うと眩暈(めまい)を覚える。 「分からなくっていい」を前提として本を楽しめる気楽さは、読者の特権である。 ◇ わしだ・きよかず 哲学者、大阪大次期総長。著書『モードの迷宮』など。
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