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書評

トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ [著]小林傳司

[掲載]2007年07月29日
[評者]山下範久(立命館大学准教授・歴史社会学)

■誰がどう「想定」し、責任を負うのか

 本書を読んでいる最中に新潟県中越沖地震が起き、柏崎刈羽原発で火災、次いで微量の放射能漏れが報じられた。M6.8、震度6強という規模の地震は、設計の想定を超えていたそうであるから、原発の損傷はある意味では必然だったともいえる。

 しかしこの「想定」とは、いったい誰の想定なのか。その「想定」の責任は誰が負うべきなのか。これらの問いがまさに本書のテーマである。

 著者は言う。特定の状況を仮定したときに、どれくらいの確率でどのような帰結が生ずるかということについてならば、専門家の意見はおおむね一致する。しかしその特定の状況が起こる確率に対して、その帰結として生ずる事態への事前(および事後)の対処にかかる費用をどう評価するのかについては、専門家の意見の一致は崩れる。この設計ならこの震度までは耐えられるということについては、確実な判断ができるとしても、そもそもどのレベルの耐震性が社会的に要請されているのかの判断にまで、専門家に確実さの責任を負わせるには無理があるのだ。

 著者が強調するのは、社会が科学技術をどのように受け入れるか、そのデザインを専門家まかせにしておける時代は終わったということである。逆にいえば、科学技術を受け入れる社会的な責任を、より広くかつ直接的に市民が共有すべきだということだ。

 もちろん、専門家と非専門家のあいだの溝は掛け声だけでは埋まらない。なにか制度的な工夫が必要だ。本書はそのひとつとしてコンセンサス会議の手法を紹介している。公募で選ばれた市民パネルが、専門家との対話および市民パネル間の対話を通じて、技術の導入に関する意見をまとめ、行政に働きかける。それによって万人が合意する完璧(かんぺき)な「想定」が保証されるわけではないが、専門家は、非専門家との対話から、より社会的に適切な「想定」をなしうるし、非専門家もその「想定」についての責任を当事者として共有することになる。

 「責任者」のつるし上げを繰り返すだけでは、問題は悪化の一途なのである。」

    ◇

 こばやし・ただし 54年生まれ。大阪大教授。『誰が科学技術について考えるのか』

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