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書評

となりの神さま [著]ペ・ソ/エトランジェのフランス史 [著]渡辺和行

[掲載]2007年08月05日
[評者]酒井啓子(東京外国語大学教授・中東現代政治)

■オモロイ友達として共存する道問う

 藤原新也が26年前に出版した『全東洋街道』が衝撃的だったのは、日本の外に旅して、アジア、中東の異文化に等身大でぶつかり、異国の強烈で生々しい日常を写真でわれわれに伝えてくれたからだ。

 ペ・ソは、同じ異国のビビッドな生の営みを日本のなかに見つけて、紹介していく。群馬県のプレハブ建てのイスラーム教モスク、東京下町のマンションの一角にカラフルに飾り立てられたシク教寺院、九十九里浜で祈る韓国のシャーマン。これほどまでに多くの宗教、信仰ネットワークが日本国内で息吹(いぶ)いていたのかと、評者にも驚きだった。

 外国人が増えるにつれ、日本に流入する異文化、見知らぬ宗教は、往々にして違和感と胡散(うさん)臭さをもって語られる。治安問題に結びつけたり、景観を問題にしたり、とにかく怪しい、という先入観が前面に出る。「異文化を理解しなければ」と考えても、頭のなかだけの優等生的回答になりがちだ。

 しかし、『となりの神さま』がこうした異文化認識と決定的に違うのは、すでに共存に視点を定めているところだ。その映像、筆致は、徹底して温かい。ワシ、こんなヘンテコでオモロイ知り合いがたくさんおるんやで、的な、友達自慢みたいな本だ。筆者自身、異国からきた人々の生活の多様さに共振し、楽しんでいる。自分もまたディアスポラ(離散の民)だという意識が、相手と同じ目線を生んでいるのだろう。

 外国人とは誰か、という問いは、国民とは誰か、との問いでもある。人々が王様への忠誠によって「臣民」とされていたとき、あるいは人々が信仰に応じて「信徒」とされていたときには、誰がその共同体の構成員かは、わかりやすかった。だが王様がいなくなり、宗教が統治と切り離された現代の国民国家では、国民とはいかに規定されるのか。

 その問題に最初にぶつかったのが、革命後のフランスである。フランス革命を支持すれば外国人もフランス人になれるのか。フランス人の子としてフランスに生まれなければフランス人ではないのか。いったん国籍を得た外国人は、子孫もフランス人なのか。

 先般フランス大統領となったサルコジ氏は、内相時代、北アフリカ出身の移民第二世代の若者を「社会のくず」と呼んで、物議をかもした。フランス国籍を持っていても、移民出身者は常に異邦人として社会から排斥される。特に近年のイスラーム運動のグローバルな台頭で、「イスラーム嫌い」が西欧全般に蔓延(まんえん)しつつある。

 『エトランジェのフランス史』は、外国人受け入れを巡るフランスの対応を軸に、国民とは何か、を問う。歴史的に、労働力としての外国人受け入れの必要性から、同化・共存を謳(うた)いつつ、しばしば激しい外国人排斥を繰り返してきたフランス。今後、日本も同じような試行錯誤を強いられるのだろうか?

 でもそこに「となりの神さま」を、オモロイ友達自慢として楽しむ包容力があれば、日本での異文化共存には、西欧と違う等身大の共生の道が、開けているのかもしれない。

     ◇

 ▽『となり――』/ペ・ソ 56年生まれ。フォトジャーナリスト。▽『エトランジェ――』/わたなべ・かずゆき 52年生まれ。奈良女子大学教授。

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