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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]山下範久> 記事 書評 ナショナリズムの由来 [著]大澤真幸[掲載]2007年09月02日 ■普遍的であろうとして特殊性を主張 今日、ナショナリズムという言葉には、「偏狭な」という枕詞(まくらことば)がつくことが多い。自由や人権といった普遍主義的な価値がグローバルな建前になっている現代の世界において、ナショナリズムは、理屈の上ではとうに消滅していてもよさそうなものなのに、世間を見回せばナショナリズムはますます蔓延(まんえん)し、世界を見渡せばますます過激なナショナリズムが跋扈(ばっこ)している印象を受ける。本書の直接の主題は、このギャップの背後にある論理を探ることである。 現代の日本を代表する理論社会学者のひとりである著者には、この課題にあたって、自家薬籠(やくろう)中のツールがある。「第三者の審級」の理論だ。「第三者の審級」とは、自己と他者とのあいだの関係に一貫した意味があることを保証するような規範を、それらのあらゆる関係に先立って設定する特別な立場に現れる者のことである。人類史において、それはたいてい神なのだが、時代が下るにつれてそのような超越性の抽象度は増し、その分だけ、そのあらわれ方が入り組んでくる。 この「第三者の審級」の抽象化の複雑な過程を丹念に解きほぐした先に著者が確認するのは、ナショナリズムは、自己の特殊性を単純直接に主張する言説ではないということだ。ナショナリズムは、その表現としてはたしかに特殊主義的ではあるが、それはむしろ、理念的には普遍主義的な価値主張を受け入れた上で自己の立場を正統化しようとする主体が、現実の世界において他者と向き合うときに、一種の論理的帰結として現れる態度なのだ。なぜなら普遍主義的価値は、原理的に実現の途上にあるものであり、ゆえに現実の世界は、その価値を引き受けて未来に属する自己と、その価値を共有せず現在に属する他者の間に、緊張関係を強いるからである。つまり、ナショナリズムは、世界の普遍主義化にもかかわらず激化しているのではなく、世界の普遍主義化ゆえに激化しているのだ。 著者は、この世界の普遍主義化の過程を、近代化した世界がその外部を取り込んでいく過程として捉(とら)えている。古典的には、その過程は西洋と非西洋とのあいだに展開したが、グローバリゼーションによって、今日、取り込みの対象となる〈外部〉は、きわめて流動的で散乱した断片として遍在化している。それが古典的な国民国家を横断し、内部から解体するような新しい(そしてしばしば危険な)ナショナリズムを招いているのである。 著者は、これまでも「第三者の審級」の理論を携えて、オウム真理教や9・11テロなど、「理解を絶した」同時代的事件を積極的に議論の俎上(そじょう)に載せ、鮮やかな解釈を提示してきた。本書での「第三者の審級」の理論の手さばきは、もはや名人芸の域だ。800ページを超える大著だが、心地よい緊張感をもって読みとおせる。あえて言えば、前提になっている世界史の枠組みが教科書的な印象は否めないが、それがむしろパラダイムを内側から総体として描き切る思想的強度を際立たせているともいえる。グローバル化時代におけるナショナリズム論の基準を示す力作である。 ◇ おおさわ・まさち 58年生まれ。京都大学教授。『性愛と資本主義』『身体の比較社会学』『戦後の思想空間』など著書多数。
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