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書評

イエズス会宣教師が見た日本の神々 [著]ゲオルク・シュールハンマー

[掲載]2007年09月23日
[評者]野口武彦(文芸評論家)

■一神教の目で見た八百万の神の国

 真言宗の信者はデウスを大日(だいにち)といい、禅宗では方便といい、浄土宗は阿弥陀といい、法華宗は「妙」という――イエズス会の宣教師が日本人の宗教的な寛容さから受けた印象を語って、これほど簡潔な表現はあるまい。

 本書はザビエル研究家のシュールハンマー神父が一九二三年に著した『神道。日本における神々の道』の全訳である。リスボンの古文書を発掘し、日本で布教した同会宣教師の報告書から「見たまま、感じたままの日本の神々の話」を抜粋した労作である。

 宣教師が活躍した十六世紀後半から十七世紀初めの百年間、日本の宗教は両部神道に体系化された神仏混淆(こんこう)であった。だが布教の第一線で直面するのは、教義ではなく、寿命・健康・財産・子孫繁栄などさまざまな現世利益を願って一心不乱に祈る民衆の旺盛な信仰心なのである。

 広島を旅したジラムの書信には、参拝者で賑(にぎ)わう「美しい島」すなわち厳島神社の壮麗さに驚いた神父がこんな「偶像の建物」を崇拝する人々の「盲目」に驚きを禁じ得なかったと記されている。

 奈良の春日大社を訪れたアルメイダは、鬱蒼(うっそう)と繁(しげ)った森と美しい杉並木に「私は生涯でこんなに美しく、こんなに高く、太い木々を見たことがありません」と感嘆する。だが同じ場所がヴィレラには「バアル(フェニキアの異神)の神官とその神殿」と映じて非難の眼差(まなざ)しを向けられる。

 フロイスが京都の祇園祭から得た感想は「悪魔はその行列ではキリスト聖体節のまねをしている」というものだ。時に思い浮かべるのは、「日本の国家的聖地、伊勢の日の女神の社を十字架が征服する希望」であった。

 神仏を端から悪魔にしてしまう排他性には、初めに記した多神教的な寛容さに比べると、一神教特有の押しつけがましさが否定できない。

 キリシタン信徒になった人々の信仰心は疑えないが、イエズス会の活動は貿易実利や医療と無関係ではなかった。天主教の神は日本の弾力的な宗教風土の中に、八百万(やおよろず)の神々の有力な一柱として受容されたと見るのは僻目(ひがめ)か。

    ◇

 安田一郎訳/Georg Schurhammer 1882〜1971年。イエズス会宣教師。

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