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書評

川柳のなかの中国 日露戦争からアジア・太平洋戦争まで [著]中村義

[掲載]2007年10月28日
[評者]赤澤史朗(立命館大学教授・日本近現代史)

■庶民の目線を通して探る中国認識

 「支那といふ大きな謎に行き当たり」。これは時事川柳をリードしてきた井上剣花坊が、1927年に詠んだ一句である。中国が見知らぬ他者として立ち上がってきたことに、ハッと気づいた一瞬を表している。

 本書は、日露戦争から第2次世界大戦直後までの日本人の中国認識を、約1000句に及ぶ川柳を通してたどろうとしたものだ。川柳には庶民の目線を追求しようとする姿勢があるが、その庶民の中には中国人への蔑視(べっし)も存在した。しかし剣花坊が始めた時事川柳には、その蔑視を乗り越える要素があったといえよう。「支那人のおろかな顔が恐ろしい」。これは剣花坊主宰の川柳誌に載った、満州在住の草明の28年の句である。一見愚かなようで、自立性や反抗性を持った顔をしているのである。

 ただ近代川柳の主流は、時事川柳とは異なる生活派的川柳であった。しかし満州事変以降その庶民の生活も次第に変化し、34年から生活派的川柳でも満州の題材が急増するという。「満洲(まんしゅう)へ行く気課長と気が合はず」。ここには満州が職場の不満のはけ口になっていることを、冷やかす気分がある。だが日中戦争が始まると、出征兵士の「子の便り蒋介石を切れとあり」というふうに、だんだん川柳も前線の勇ましさに巻き込まれていくのである。

 他方で満州の地に住みついて、高粱(コーリャン)や苦力(クーリー)など満州の異国の風物を詠み込んだ川柳人もいた。華北交通社にいた石原青龍刀もその一人である。彼の41年の句。「徳はなし況(いわん)や言語不通をや」。青龍刀は中国人に威張り散らす現地の日本人たちを、苦々しく見つめていた人だった。

 川柳の魅力は、自己の日常の生活感覚を突き放して見た面白さにある。だが戦時中には、面白みのない川柳が増え続けていった。

 そして敗戦。その時の青龍刀の一句。「半苦力元皇軍をアゴで指揮」。中国人との支配関係の逆転を軽々と描く精神は、川柳のしたたかな伝統を感じさせるものである。日本人の中国認識の幅や広がりを示した一書といえよう。

    ◇

 なかむら・ただし 29年生まれ。東京学芸大名誉教授(近代中国史)。

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