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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]巽孝之> 記事 書評 マルクスの亡霊たち [著]ジャック・デリダ[掲載]2007年11月04日 ■ゴシック・ロマンスに似た感動 マルクス=エンゲルス共著の『共産党宣言』(1848年)冒頭は、誰もが知っている――「亡霊がヨーロッパに取り憑(つ)いている――共産主義の亡霊が」。 そしてシェークスピアの『ハムレット』(1600年頃)冒頭が「誰だ?」の一言で始まり、第一幕第五場にて元国王である亡父と対面したデンマーク王子が「時代の蝶番(ちょうつがい)が外れてしまったのだ」と呟(つぶや)き、第三幕第一場の名独白冒頭へ続くことも、誰もが知っている――「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」。 フランス系ポスト構造主義思想家デリダの後期代表作は、250年ほども隔たるこれらふたつのテキストを一気に接ぎ木してみせるという、驚くべき離れ業で幕を開ける。しかも、西欧形而上学(けいじじょうがく)の歴史においては、比喩(ひゆ)として以外まともに取り上げられることのなかった「亡霊」が中心テーマなのだ。なぜか? 本書のもとになったのは、カリフォルニア大学リヴァーサイド校にて1993年4月に行われた会議の講演草稿であり、同年中に公刊された。当時といえば、1991年に米ソ冷戦が終結し、アメリカを中心とした自由主義が覇権を握り、先代ブッシュ大統領が新世界秩序の構想のもとに湾岸戦争を行った時代。1992年11月に選出されたクリントン大統領に政権交代してもなお、グローバリゼーションの名の下に世界のアメリカ化が続き、マルクスと共産主義は、まったくの過去の遺物として葬られようとしていた時代であった。 折も折、ヘーゲル学者コジェーヴの学統を継ぐフランシス・フクヤマが、冷戦解消直後、1992年に『歴史の終わり』を刊行して、ベストセラーとなる。もともとコジェーヴは、戦後アメリカにおけるマルクス主義的「共産主義」の最終段階は人間を動物性にまでおとしめると断言したが、1959年の日本旅行をはさんで軌道修正し、そうした歴史の終わりにはさらに風流な、よりスノッブな極致があるのであり、それこそは日本的な「ポスト歴史性」だと考え直す。 デリダはそうしたコジェーヴの解釈をシニシズムに彩られた楽観主義と一蹴(いっしゅう)、その理論を発展させたフクヤマもまた、人類の一貫した方向性のある歴史がテロリズムやホロコーストを経由しても「結局はリベラルな民主主義へ導く」と断定した点において軽率で、情状酌量の余地が少ないと批判する。というのも、民主主義とはとうに実現している制度であるどころか、たえず事実と理念とのあいだで失敗し隔たりをもち、「その間隙(かんげき)のなかでしか現れることのできない約束の理念」すなわち「来るべき民主主義」であるからこそ有意義なのだから。存在するか存在しないかのどちらかではなく、存在か非在かを決定するぎりぎり手前のところで踏みとどまる思考の水準において、「亡霊」が特権化されている。マルクスの『資本論』第1巻(1867年)冒頭は商品の使用価値のみならず神秘的性質を洞察したが、そこに斬新なる亡霊の理論を適用することで最大の批評的クライマックスを迎える本書は、あたかも上質のゴシック・ロマンスにも似た感動を与えるだろう。 ◇ Spectres de Marx 増田一夫訳/Jacques Derrida 1930〜2004。仏の哲学者。邦訳書に『エクリチュールと差異』『声と現象』など多数。
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