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書評

さまよえる工藝―柳宗悦と近代 [著]土田眞紀

[掲載]2007年11月04日
[評者]赤澤史朗(立命館大学教授・日本近現代史)

■固有の美と存在理由を求めた歴史

 近代日本の工芸史である本書のタイトルは、近代日本の美術の世界で曖昧(あいまい)な地位に置かれていた工芸の担い手たちが、自己の固有の美と存在理由を求めてさまよってきた歴史を、一言で示したものだ。近代日本において織物や陶磁器、漆器などの工芸品は、古めかしい前近代的な産物と理解されていた。それらは個性的な創作とは対極の、型どおりの職人仕事として低く見られていたのである。

 本書はこの中で近代の工芸作家たちが、どのように試行錯誤しつつ古い殻から抜け出そうとしたのかを跡づけている。そしてその近代工芸の立場を表現した一つが、思想家の柳宗悦(やなぎむねよし)の民芸の思想だったと位置づけるのである。

 民芸が近代工芸の思想だとは、不思議な印象を与えられるだろう。なぜなら民芸品は、地方の無名の工人によって作られた、昔ながらの庶民の実用品だとされたからである。でも、柳の日本民藝(みんげい)館に所蔵された数々のコレクションは、伝統的な価値観から自由な、柳の個人的な「眼(め)」で選ばれた美しい工芸品であった。素朴な美しさを打ち出した民芸の立場は、しばしばアマチュアのもつ新しさを尊重する近代工芸の世界に、一致するものであった。

 ただし著者は、作られた工芸品とそれを作る人の思惑との間に、さまざまなズレがあったことを重視している。古い職人世界の否定が、直ちに近代的なデザインの作品を生み出したわけではない。その種のズレは、柳の民芸の思想と彼が蒐集(しゅうしゅう)した民芸品との間にもあった。柳は朝鮮の陶磁器の美を「悲哀の美」と説明したが、彼の朝鮮関係のコレクションはそれに限らぬ多様な美しさに満ちていた。

 美術館では近年、見捨てられていた近代日本の工芸品に光をあてる試みをしてきた。学芸員だった著者もその担い手の一人である。本書はこの流れに立って、作られたもの自体が訴えかける美の主張を拾いあげて、そこから近代日本の工芸やその思想の意味を考えようとしている。ものとの対話から生まれた近代日本の工芸史である点に、その新鮮さがあるといえよう。

    ◇

 つちだ・まき 帝塚山大人文科学部非常勤講師。共著に『近代日本デザイン史』。

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