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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]鴻巣友季子> 記事 書評 走ることについて語るときに僕の語ること [著]村上春樹[掲載]2007年11月18日 ■「文学の悪」に負けない作家の気迫 「我走る、ゆえに我あり」――百キロ走のウルトラマラソンではこんな没我の境地まで経験したランナー作家によるメモワールである。近年、ノーベル文学賞に最も近い日本人の一人と言われながら、寡黙を通す作家の、初の自伝作品としても貴重だ。 「どれぐらい自分の能力を確信し、どれぐらい疑えばいいのか」。走ることと書くことは著者の中で深く通底し、結ばれている。双方勝ち負けがないこと。pain(つらさ)をsuffering(災い)にしないことの大切さ。この“走る小説論”の中で印象的だったのは、“才に恵まれないことの恵み”についてだ。この大作家に才能がないわけがないと、厭味(いやみ)に感じるかもしれない。が、「優れたランナーではない」彼が、走りの力学を引き合いに出して創作哲学を語るとき、そこにはなにか説得力のある真摯(しんし)さが生まれる。無尽蔵の才能の泉をもたない者は「自前で筋肉をつけ」「訓練によって集中力を養い」穴を掘るうちに、「秘密の水脈」に行きあたることができるのだ。 それにしても、毎日走り込み、毎朝執筆するストイックなランニング=創作姿勢はいかにして持続されるのか? それは即(すなわ)ち、村上春樹は結局、凡人とどこが違うのか? ということだが、答えの一部は第五章にある気がした。小説の執筆は人間の毒素が抽出されてくる「不健康な作業」。だからこそその体内毒に対抗できる免疫システムが必要となる。そう、悪を描いた者は悪に蝕(むしば)まれるか? 「文学と悪の問題」は、古代哲学から『悪の華』をめぐる緒論など、様々に論じられてきたが、村上春樹はきっぱり言う。悪を描きながら悪に負けない免疫体系を維持するには、とにかく「基礎体力」だと。六十前にして加齢を意識したトップランナー作家が、体力的に毒負けする時期を少しでも遅らせるために鍛錬するという言葉には、気迫がある。翻ってわが身のだらしなさにいじけたくもなるが、この精神のサウンドネス(健全)は超人的。万国の読者が彼の作品で癒やされるわけが理解できた。 ◇ むらかみ・はるき 49年生まれ。06年、フランツ・カフカ賞(チェコ)など。
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