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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]酒井啓子> 記事 書評 オリエンタリズムとジェンダー 「蝶々夫人」の系譜 [著]小川さくえ[掲載]2007年11月18日 ■「従順な東洋女性」の幻影をたどる 外国客の日本観光に付き合った時、着物が買いたいといわれて困ったことは、ありませんか? 数百万円もする本格的な物が欲しいわけではないから、土産物屋でペラペラの派手な浴衣を紹介すると、風呂上がりのガウンに好(よ)いと言って、喜ばれたりする。 違うんだけどなあ。間違った日本理解を黙認したことに忸怩(じくじ)たる思いを持ちつつも、でも外人向けのキモノは、日本の正しい文化とは別物だと、割り切ろうとする。 日本文化が多少捻(ね)じ曲がっても、ガイジンが喜べばまあいいかと、寛容に対応しようと思うが、欧米映画でトンデモな日本像が描かれると、しばしば不快感が表出する。最近では、中国系女優が主役の日本女性を演じた米映画「サユリ」が、話題になった。 そうしたガイジン仕様の日本に我々が違和感を感じるのは、そこで日本的なるものが、西洋の持つイメージのなかで再構成され、リアルな日本と乖離(かいり)していることが、全く問題にされていないからだ。乖離したまま東洋的イメージ喚起の素材にされ、ジャポニズムという「共有財産」として、西洋で受け継がれていく。 作者はその典型例として、「蝶々夫人」を取り上げる。小説やオペラの「蝶々夫人」に先行する小説「お菊さん」や、ジェンダー的、オリエンタリズム的視角をパロディー化して逆転させた戯曲「М・バタフライ」をも分析対象として、西洋がいかに「従順な東洋女性」という幻影を作り上げていったかを、描く。 そこでは日本人は、見られるだけの「標本」でしかない、と作者はいう。「お菊さん」が日本経験を踏まえた、憧(あこが)れと幻滅の話だったのに対し、その後の「蝶々夫人」では幻影が純化され、西洋が西洋のために作り上げた他者認識として固定化される。19世紀後半以降流行(はや)ったジャポニズムは、西洋の東洋観に根強く潜むオリエンタリズムと同根だ。 最後に取り上げた「М・バタフライ」の分析が、秀逸。ステレオタイプ化された男と女、東洋と西洋の立ち位置を巧みにひっくり返しているところが、面白い。 ◇ おがわ・さくえ 宮崎大学教授。訳書にシヴェルブシュ『闇をひらく光』など。
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