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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]香山リカ> 記事 書評 子どもが忌避される時代―なぜ子どもは生まれにくくなったのか [著]本田和子[掲載]2007年12月02日 ■「次世代を作る」を公的な営みと主張 私事になり恐縮だが、私には子どもがいない。決意や選択の結果というより、何も選択せずにいたら自然にこうなった、とこれまで思っていた。 著者は、少子化の根っこにあるのは「子ども忌避」の心性だとする。だとすると私も、自分でも気づかぬうちに「次世代の人間を作り出すという営み」を積極的に忌避していたのだろうか。これはただごとではない。 しかし著者は、この「子ども忌避」は現代女性の意識の変化のみによって起きたものではない、とする。それは、社会の近代化に伴ういくつかの変化の総体なのだ。そして、親子関係、生活空間、都市空間、情報ツールやメディア、犯罪など、それぞれの要素ごとに「子ども感」の変化の歴史を丹念にたどっていく。 たとえば、親子関係に関する章には、西欧文明の輸入である「ホーム主義」と前近代社会の「イエ」概念が結びついた結果としての「緊密な母子関係」がどういうプロセスで変遷していったかが描かれる。家電製品やインスタント食品、塾の普及などの結果、母親は子どもにとって「なくてはならない者」ではなくなっていき、親子は互いに必然性の乏しい存在となってしまった。そしてもちろん、この親子関係の希薄化は、「子どもの忌避」の要因のひとつにしかすぎない。 なるほど。“なんとなく子どもがいない私”も、明治以降の複合的な社会変動のひとつの結果だったということか。「産まない女はワガママ」と責められるよりは「近代化の必然」と言ってもらったほうが気がラクだが、それで問題が解決したわけではない。著者は、「人」という種を絶滅から守るための生殖行為を、単なる私的行為を超えた「大いなる目的に奉仕する『公的』な営み」に位置づけよと主張する。「その責務を果たしていない私っていったい……」とまたまた「私」に拘泥してしまうのが、そもそも近代の病理なのだろう。近代的自我と「子ども」は両立するのか否か。あまりにもむずかしい問題だ。 ◇ ほんだ・ますこ 31年生まれ。お茶の水女子大元学長、名誉教授(子ども学)。
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