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書評

富豪の時代―実業エリートと近代日本 [著]永谷健

[掲載]2008年01月06日
[評者]赤澤史朗(立命館大学教授・日本近現代史)

■自信を持てなかった明治の富豪たち

 今の日本の中には一方で、学歴も何も関係ないじゃないか、金があることが一番だという考え方がある。しかし社会全体が、こうした価値観で一元化されているわけではない。金があって贅沢(ぜいたく)ができることを素晴らしいと賛美する向きはあるが、金満家たちの行動は金のあるにまかせて粗暴であると、反発する意見も無視できない。

 本書によれば、明治期に巨万の富を築いた財閥の当主たちは、幕末に低い身分であったことから受けた屈辱や、財力のある者が身分差別を超えていける実情を目にしたことが動機となって、蓄財に励むようになったという。そこに生じたのは、金銭に大きな価値を見いだすような志向である。実際に彼らは、事業経営で成功し致富(ちふ)することによって爵位まで与えられ、新しいエリート層の一員として社会的に認知されるようになっていった。

 とはいえ彼らは、金銭万能という価値観を表明することはなかった。彼らはむしろ、自らの国家への貢献や質素倹約を強調しているのである。著者はその理由に、彼らの蓄財に関するダーティーなイメージがジャーナリズムの上で強かったことを挙げている。

 むろん一方では、成功した実業家への社会の注目度は高く、明治後期には『実業之日本』のように、彼らの生き方を青年の模範とする雑誌も出現した。しかし他面で彼らは成り上がりの「奸商(かんしょう)」といった厳しい世間からの批判にさらされ続けていたのである。

 「富豪」たちの活動を正当化する説明の一つは、彼らが生産的な「実業」という新しい価値に従事しているというものだった。だがその蓄財は、実際はマネー・ゲームの「虚業」にもよっていた。著者は彼らが、社交的な茶会などの実業家文化を育てたものの、社会的な威信を帯びた独自の上流階級文化を創(つく)れなかったと見ている。財閥の当主は「超」のつく金持ちだったが、その彼らにしても外部の批判を恐れ、社会の模範になりえない面があった。彼らを本当の自信が持てなかった階級として位置づけた、ユニークな視点が光る本だった。

    ◇

 ながたに・けん 63年生まれ。名古屋工業大学大学院工学研究科准教授。

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