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書評

大日本帝国のクレオール―植民地期台湾の日本語文学 [著]フェイ・阮・クリーマン

[掲載]2008年01月27日
[評者]赤澤史朗(立命館大学教授・日本近現代史)

■同化されえない主体性を浮き彫りに

 日本語はおおむね日本国内でしか通用しないが、台湾ではきれいな日本語を話す老人に出会うことがある。そのことは時に勘違いを生み出すものだ。日本語を話す台湾人は「親日」的に違いないと。

 台湾は小さな島だが、その言語状況は単純ではない。たとえば日常に話す台湾語は大陸の中国語とは大きく違っていて、口語の台湾語を表す文字はないという。日本語は植民地期の同化政策によって導入されたが、この状況下では台湾人が文章語に日本語を選んだからといって直ちに「親日」であるとは限らない。

 本書は台湾が植民地だった時代の、台湾に関し日本語で書かれた文学を通して、日本の文化的支配の内実を問うたものである。ここで取り上げられた、台湾人によって日本語で書かれた戦時下の作品は、厳しい検閲を意識して書き手の内心の立場を隠すような、陰影に富んだものだった。著者は、表面的には国策協力のテーマで書かれたそれらの文学が、台湾人の生活をリアルに描こうとする郷土文学派の呂赫若(りょかくじゃく)はもとより、日本への同化を主題とする皇民文学派の周金波の作品までもが、意外にも簡単に同化されえない、台湾人の立場やその文化的な根をあぶり出していることを明らかにしている。

 またここでは、佐藤春夫や台湾在住の西川満のような日本人作家の作品も取り上げている。しかしそれらは、日本の統治の仕方への批判意識をにじませている場合もあったが、主に台湾の古い伝統や先住民たちに着目した、異境へのロマンティックな関心に基づいた作品であった。

 国語教育を中心とした日本の同化政策は独善的なもので、帝国の支配は多言語の状況を生み出した。しかし本書は台湾人が同化政策に対応しながら、同化とは異なる独自の主体性を育んできたことを明らかにしている。台湾出身で日本に留学しアメリカの大学で教鞭(きょうべん)を執る著者は、自ら多言語を生きる人として本書を書いたものだと思う。著者の中には多層的な視点があるが、屈折に満ちたテキストを読み解く著者の巧みさに、感心させられる力作であった。

    ◇

 林ゆう子訳/Faye Yuan Kleeman コロラド大学準教授。

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