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書評

大量虐殺の社会史 [編著]松村高夫ら/自動車爆弾の歴史 [著]マイク・デイヴィス

[掲載]2008年02月24日
[評者]酒井啓子(東京外国語大学教授・中東現代政治)

■虐殺の隠蔽や相対化に対抗するには

 世界のあちこちで、虐殺や大量殺戮(さつりく)が起こっている。その国の政府の弾圧だったり、戦争によったり。圧倒的な国家の犯罪を前に、看過してはいけない、事実を暴かなければならない、と考える。それは切実な思いだ。

 歴史家が虐殺の事実を明らかにしようとするとき、二つの障害がある。加害者の国家による史実の隠蔽(いんぺい)と、記憶を重視し実証に懐疑的な歴史学による虐殺の相対化である――。

 こう主張する『大量虐殺の社会史』が編まれた動機は、明確だ。近年のポストモダン的歴史学は、歴史的事実を究明不可能とする不可知論に陥ってしまい、国家による虐殺という史実を隠蔽するのに加担しているのではないか。改めて史実の実証分析に力点を戻し、記憶ではなく記録に基づいて虐殺を分析し、比較研究の俎上(そじょう)に載せ、生命の尊厳を守ることに寄与したい。こうした歴史家としての編者の意気込みが伝わってくる編著である。

 そこでは、ユダヤ人へのホロコーストやポル・ポトの殺戮、ルワンダ内戦などがあげられているが、朝鮮戦争直後の米軍による韓国避難民攻撃や、クロアチアの対セルビア人虐殺など、知られざる事件にも光を当てる。

 しかし、ここで拭(ぬぐ)えない疑問が起きる。誰がそれを虐殺と名づけるのか。誰がどの虐殺を暴き、どの虐殺を無視するのか。本書の目次を見ても、1982年のイスラエル軍によるサブラ・シャティーラの虐殺が入っていないとか、イスラエルの占領地パレスチナ人の扱いをどうするのだとか、英植民地下のインドに対するイギリスのさまざまな殺戮はと、記述されなかった虐殺に、むしろ目がいく。誰がどう記録するかという視点抜きに、史実だけを取り上げるのは難しい。

 ある人々の死が不当なものだったという認識が、史実や歴史家や国家によって取り上げることすらしてもらえなかった場合に、ときとしてそれは私的報復を生む。報復する主体が貧しく、組織的バックアップがないほど、「貧者の空軍」、自動車爆弾が活躍する。

 『自動車爆弾の歴史』は、自爆テロと一くくりにされやすい爆破事件の起源と背景を追っていく。米国のアナーキストが、映画「死刑台のメロディ」で知られたサッコとヴァンゼッティの冤罪に怒り、荷馬車に爆発物を積んで群衆に突っ込んだのが、自動車爆弾の走りだそうだ。イスラーム主義者の十八番のように言われる自動車爆弾が、実はイスラエルや米国の諜報(ちょうほう)機関が広めたものであること、爆弾の効果を確実にするために自爆というやり方を最大限活用したのは、スリランカの「タミールの虎」だったことなど、持たざる人々の反駁(はんばく)の手段としての乗り物爆弾が、グローバル化する過程を描く。

 虐殺を止めるために、動かぬ証拠を確保する。史実をつきつけて加害者を罰しなければ、と思う半面、わかったところからのみ罰していけば、グローバルに隠蔽能力と価値体系を独占するものたちの犯罪は、最後まで暴かれない。虐殺認定を含む国際社会の認識の偏りが正されなければ、非国家主体による報復への流れは止まらない。

   ◇

 『大量虐殺の社会史』 まつむら・たかお 慶応大学名誉教授。やの・ひさし 慶応大学教授。

 『自動車爆弾の歴史』 BUDA’S WAGON 金田智之・比嘉徹徳訳、Mike Davis アメリカの社会批評家。

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