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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>書評>[評者]野口武彦> 記事 書評 日本語と日本思想 本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人 [著]浅利誠[掲載]2008年03月30日 ■助詞「は」から見える巨大な問題領域 最近の話し言葉で、ふつう「である」と結ぶところをデハアル、「にある」をニハアル、「と思う」をトハ思ウと表現する言い方が広まったように感じるのは、書評子の僻耳(ひがみみ)であろうか。助詞ハのこの新奇な用法は、本書が《日本語と日本思想》という巨大な問題領域に向けているレーダーの画面で、何かを告げて点滅する輝点なのではないだろうか。 未踏の地の探索は、学校文法では係り助詞と教えられるハをもっと「怪物的な何ものか」ととらえる問題設定に始まる。 サブタイトルに並ぶ本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人の名前は、一定の論理で配列されている。本書のテーマは、柄谷が提示した《「近代の超克」をいかに乗り越えるか》という課題を日本語文法論の切り口から徹底的に考え抜くことにある。 かつて和辻哲郎が、ドイツ語のザイン(sein)と日本語の「がある(存在)」と「である(繋辞〈けいじ〉)」との比較をこころみたのは記念碑的である。だが問題の焦点は動詞ではなく助詞にあるとするのが著者の着眼だ。 見据えられているのは《繋辞(コプラ)のbe動詞のない日本語は主語のはっきりしないアイマイな言語だ》とする西欧派と、《主語などいちいち言わなくてもよく、繋辞も独自に備わる優れた言語だ》とする超克派との不毛な対立からの脱却である。著者はあえて、民族優越論の罠(わな)に陥った超克派の日本語論を超越的に(批判哲学的に)読み解くことに乗り越えへと転じる可能性を賭ける。 柄谷は宣長のテニヲハ論、西田哲学の「場」の理論、時枝誠記(もとき)の国語学における「詞(ことば)と辞」論の三つに「特権的な重要性」を与えているのだが、著者は、時枝を宣長の正統な継承者と認めず、代わりに三上章をその系譜に据える。『象は鼻が長い』の著書で知られ、一貫して《主語廃止論》を主張してきた孤高の言語学者である。 従来の文法では「象は鼻が長い」式の構文を「二重主語」といった苦しい説明で弥縫(びほう)せざるを得なかった。三上は、日本語の構文的特徴を西洋語のような「主述二本立て」ではなく、「述語一本立て」だと明言する。ハには述語を呼び出す特別な職能が認められる。 著者はこの文法論を《テニヲハには言葉の本末を協(かな)え合わせる定まりがある》といった宣長の系譜に位置づける。日本語の構文には自問自答が内在する。係り結びが滅んでも生き残ったハは、今でも必ず「結び」の手応えを予感しつつ発語されている。 論証の手続きは周到だ。行きつ戻りつ一語一語に吟味を加えて三上と手に汗握る対話を重ねる。「日本語のコプラはハであろう」と三上はいう。だがその説は、コプラなる西洋の概念に相当するものがあればという限定付きであるから「定義の決定打」ではない、と三上文法を読み破るのである。 その前提を取り払い、文末のピリオドをすら越えて前進し、結びの連鎖を先へ先へと進める語勢にハの生命力を見るのが本書の達成点だ。助詞ハが日本語の構文的なリズムを引き出すという直感が躍動している。 ◇ あさり・まこと 48年生まれ。フランス国立東洋言語文化大学助教授。共編著に『他者なき思想』など。
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