[掲載]2008年5月18日
■かすかな心の叫びに耳をすませて
ソ連のガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功したのは1961年、アメリカのアポロ11号が月面に降り立ったのは1969年――1960年代は、宇宙(と言葉)の時代だったのだと思う。
ガガーリンは、「地球は青かった」と言った。アポロ11号のアームストロング船長は「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と言った。そして、1963年6月、女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワは、ヴォストーク6号から地球に向かって語りかける。
「わたしはかもめ」
その声を遠くに鳴り響かせつつ、この長編小説は幕を開ける。語り手は遠くにいる。上空からひとびとの営みを俯瞰(ふかん)し、水面に向かってすうっと下降するかもめさながら、その中の一点へと降りていき、小さなエピソードを語り終えるとまた空へと舞い上がる。
妻を亡くした作家、男たちに乱暴された少女、デパートの前のベンチで夜を明かした巨体の青年、FMラジオ局で働く男たち、女たち……一見ばらばらな人物や場面でも、じつは彼らにはかすかなつながりがある。ただし、語り手は、その関係に積極的に介入はしない。静かに見つめ、静かに語るだけだ。大空を旋回し、ときおり水面に降りて、登場人物よりむしろ読者の胸に小さな波紋を残して、再び空に戻る。その繰り返しである。
決して親切な小説ではない。だが、語り手のまなざしに寄り添って物語を読み進めていくと、しだいに、ひととひとがかすかなつながりを持ちながら生きていくことと、そのつながりの網目によってかたちづくられる世界――〈幸福と不幸が、いつでも混じりあっているような〉世界そのものが、たまらなく愛(いと)おしくなってくる。
さらに、そんな「まなざし」の美しい移動に文字通り目を奪われる一方で、僕たちの耳は登場人物の「声」も聴いている。
物語の中心になる舞台はラジオ局である。声のメディアである。それも、いったん信号に変換された声を、受信機が再び声に戻すという手続きを踏んだ声だ。作家の書くショートストーリーはラジオで朗読され、少女と青年は携帯のメールで言葉を交わす。いずれも信号として空を飛び、アンテナを持つ受け手のもとへと届けられて声に戻る。「わたしはかもめ」の一言で始まった物語は、無数のかすかな信号が空中で行き交う物語でもある。ひとは誰も、微弱で、ノイズ交じりの、ときには途切れがちにもなる信号を発している。それを受け止めてくれるパラボラアンテナがどこかにあることを信じて。
声を聞き取ること/聞き取ってもらえること――そのつながりこそを、本書は描いているのではないか。「わたしはかもめ」は人類史上初めて宇宙から届いた女性の声である。作家の妻の声は、少女の心の叫びは、誰に、どう聞き取ってもらえるのか。耳をすませて読んでいただきたい。かすかな声が聞こえてくるとき、僕たちもまた、つながりの世界の住人になっているはずなのだ。
◇
くろかわ・そう 61年、京都生まれ。作家、評論家。『もどろき』『イカロスの森』『明るい夜』『若冲の目』など。評論では『国境』、共著に『日米交換船』がある。
著者:黒川 創
出版社:新潮社 価格:¥ 1,680
著者:鶴見 俊輔・加藤 典洋・黒川 創
出版社:新潮社 価格:¥ 2,520
著者:黒川 創
出版社:メタローグ 価格:¥ 2,940
著者:黒川 創
出版社:文藝春秋 価格:¥ 1,890
著者:黒川 創
出版社:新潮社 価格:¥ 1,785
著者:黒川 創
出版社:新潮社 価格:¥ 1,680